セルフネグレクト・暴力・気散じ
セルフネグレクトは主として社会問題から出発して論じられる。具体的には独居老人の住環境の荒廃であり、ゴミを捨てられなくなってゴミ屋敷となった家庭であり、飼育不可能な水準に達した猫屋敷などだ。これらの場合、生活能力や認知機能の欠如や喪失が原因だとみなされている。
ケアや支援からセルフネグレクトを扱った専門書がいうところでは、「正式に研究者や援助専門職のなかで共通認識化されたセルフ・ネグレクトの定義は存在しない」。ただし、高齢者虐待の研究においてアメリカの大きな影響を受けてきた日本では全米高齢者虐待問題研究所の定義がよく引用されるという。それは「自分自身の健康や安全を脅す事になる、自分自身に対する不適切なまたは怠慢の行為」である(岸恵美子「セルフ・ネグレクトとは」、岸恵美子・小宮山恵美・滝沢香・吉岡幸子 編『セルフネグレクトの人への支援』中央伯耆、2015、p.2)。その後検討される定義も高齢者の生活能力にかかわるものが多い。
だがこの定義は、表面化した問題から原因へと辿って生まれているため、ネグレクトが微弱なために問題として現れないような形態を最初から取り逃してしまう。「セルフネグレクト一般」を考えるなら、むしろ目立った問題や外見に発展しないタイプについて考える必要がある。
そのように問いを立て直すなら、「自分に対する認識」の方から考えるのが有効ではないだろうか。私見では、これは労働と学術的訓練における規範の吸収過程に見ることができる。行動規則の理解や優先順位の決定、情報にかけるフィルタリングといった技能一式をスムーズに習得するためには、そのつどあらゆる疑問や価値観とすり合わせてマッチングさせようとしていては習得の障害になってしまう。こういったときには、そうした意識的活動の中心性を弱めなくてはならない。そうして学習過程において人は一旦自分を括弧にくくることを覚える。さらには、規範や型に照らして自分の行為や生産物が十分なものとなっているかを判断する際にも、自分を客体的にみるためにこの種の自己意識を傍らに遠ざける作用が用いられる。こうしたいわば自己遠心的な作用は、ラーニングにおいて必須であり、肯定的なものとみなされる。なぜなら、別の自分に変化するためには自分を傍らに遠ざける作用ーーセルフネグレクトーーの善用が必要だからだ。このように、微弱で肯定的なセルフネグレクトを考えることができる。
ところが、適正値を越えた作業環境、作業内容、生活の困窮といった条件が揃い、さらにそこに規範によってセルフコントロールしている状態が加わるとき、人は簡単に壊れてしまう。心身ともに疲れ果て、目標水準を達成できない自分を肯定することも困難になってしまう。さらには、その挫折によるダメージと向き合うどころか、そのダメージがセルフネグレクトを加速させる。こうなってしまったとき、もはやネグレクトは暴力そのものとなり、自己破壊的な運動を続けるエンジンとなってしまう。攻撃の対象も自分にかぎらない。自分に対する暴力性が常態となったとき、他人への暴力性にも歯止めがかからなくなるからだ。こうなった場合は「自分自身の健康や安全を脅す」段階に達している。もはや自らを傍らに置く遠心的な過程が自己保存を危険に晒し始めているというわけだ。
以上のように、セルフネグレクトには学習上の良い面から自己破壊的な面までまたがる広い振り幅がある。良い作用は学習過程にとどまらず拡張できる。ふだん用いている注意を弱める点でこの良い作用は、「気散じ」を連想させる。
「気散じ」とは、ヴァルター・ベンヤミンは精神集中する観想にかえて対置した、注意の散漫な状態のことだ(「複製技術時代の芸術作品」)。パオロ・ヴィルノはこう解釈している。気散じとは技術的に構成された人工的な経験——つまり現代生活の経験——を受容するための効果的な方法なのだ、と。また、集中を失い、気が散った状態であるために、知的な学習には向いていない、しかし感覚的な学習にとっては気散じこそが重要なのだと説く。「すなわち、感覚的な学習は、ある程度の散漫さと不安定さを必要としているということです」(『マルチチュードの文法』廣瀬純訳、月曜社、2004年、179頁)。
学習過程で見られるようなセルフネグレクトは、気散じによく似たものとして考えることができる。作品や対象に対する注意の集中/弛緩の対比ではなく、何かを知ったり触れたりするときに主体の安定/散漫の対比。こう考えたとき、セルフネグレクトは経験や読解において、主体による制御、セルフマネジメントを解除するやり方としてあらためて姿を現す。それはもはやセルフネグレクトと呼ぶべきではないのかもしれない。self-dereliction(自己放棄)やdis-selforientation(脱自己定位)と言うべきだろうか。それは経験における発見性に寄与するだけではなく、一定の解放感をも与えると考えられる。
あるいは、学習や作品読解のような場合だけではなく、手作業などで没頭していて手と物に注意が集中し、結果的に自己定位が緩んでいる場合なども近しいかもしれない。物との戯れの中で埋没し、うっすらと自己が希薄になっているからだ。しかし、こう書くとき、この肯定的セルフネグレクトもまた悪性のものと同じく見た目は「生活の荒廃」に近づいてしまうのかもしれない……。
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このように本稿はセルフネグレクトの両義性と美学的モデルについて素描したのだが、こんなツイートを目にした。
「大人になってADHD疑ってる人、普通に鬱で生活送る能力が下がってる可能性の方が割と高いと思う」(_https://twitter.com/02bd02/status/1336971750744047626_)。このツイートが示唆するように、2010年代後半に入ってADHDにかんする情報は急速に普及した。それはADHDであるために引き起こされる生活能力の低下を補うためのノウハウのかたちを取っているものが目立ったが(たとえば「ADHDがRPG風タスク管理アプリ「Habitica」で現実にハマったお話」(2017.2)_https://kurage-official.com/2017/02/13/adhdhabitica_/、借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』KADOKAWA、2018年)、こうしたノウハウへの注目は、自分を外在的に操作する効果的なUIがあると楽だという認識が支えている。精神性や価値判断に深く関わり主体化にも影響を及ぼす規範ではなく、もっと行動の円滑化を目指すための秘訣として、自分を傍に置けるルーチン動作を作りたいといったところだろう。
だが、上記のツイートが意味するのは、こうした注目は鬱が引き起こした生活能力低下に基づき、さらにはその当人がそれに無自覚であるということだ。とすると、本稿で考えていた「自己破壊にまで至るセルフネグレクト」とは、鬱によって悪化した状態なのかもしれない。
猫になりたい、物になりたい、ぬいぐるみになりたい、植物になって部屋にいたい、といったふうに昨今SNSで見られる欲望。これについてはどう考えるといいのだろう。セルフネグレクトと一見似て見える。だが、それによって何か積極的に学習し経験する契機があるわけでもない。疲労と鬱の結果、自分を部屋の中にある静物と同じように見る視線があるのはたしかなのだが、自分を物に寄せていく想像力はまたあらためて検討することになるだろう。
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