デヴィッド・ロウリー「『ガウェイン卿と緑の騎士』序文」
THE GREEN KNIGHT (MOVIE TIE-IN) (ENGLISH EDITION) [Penguin Books, 2021]
Foreword to Sir Gawain and the Green Knight, by filmmaker David Lowery, writer and director of The Green Knight.
デヴィッド・ロウリー監督作『グリーンナイト』は2021年7月末にA24配給で英国で公開された(日本上映開始は2022年11月。日本版ウェブサイト)。それに先立ってThe Green Knight (Movie Tie-In)が刊行された。この書籍は、映画の原作である14世紀の詩『ガウェイン卿と緑の騎士』をベルナルド・ドノヒュー(Bernard O'Donoghue)が現代英語に訳し、注記や読書案内などを添えたものだが、序文を監督であるロウリーが執筆した。そのテクストは翌週にはウェブサイトで公開された。以下はその翻訳である。
(DeepLによる雑訳)
デビッド・ローリーが語る、『グリーン・ナイト』の映画化における奇妙で過酷な道のり
「これは映画化に抵抗する詩かもしれません。」
それは私が聞いたことのある物語であり、私に歌ってくれた歌だ。私はそれを書き留めるが、改良の余地があると思ったときには、このことは誰にも言わない。私がそれを作る。
これを書いたとき、私は何を考えていたのだろう?
この台詞を書いたとき、自分でも何が起きたかわかっていたし、あまりに図々しすぎることを恐れて脚本から省いたこともあった。しかし、傲慢さとユーモアが私をこのセリフに駆り立てたのだ。今手にしている作品のようなものを映画化する場合、改善(adapting)は不可能であることを自分自身に永久に思い出させるものだ。望むことができるのは、原作を反映するかすかな輝きであり、それが最良の場合、読者を原作に引き戻し、あなたが表面を引っ掻いたに過ぎないすべてを発見させるかもしれない。
というのも、大学1年生のときに『ガウェイン卿と緑の騎士』を初めて読んだとき、表面しか読めなかったからだ。ホメロスから始まり、チョーサー、ベオウルフへと続く西洋古典の初期作品調査の最後にこの作品を読んだ。サー・ガウェイン』を手にするころには、私はすっかり文学から離れていて、世界中の英語専攻の1年生におなじみの、目を血走らせたようなまなざしで読みふけった。実際の言葉も筋書きもほとんど理解できなかったが、何かが引っかかり、煮えたぎった、 それ[その理由は]は単に、しゃべる切断された頭という悲惨な光景ではなかったと思う。
私が夢中になったのは、自分が夢中になったと知る前から、例えば斬首ゲームのような古風で恣意的なものに内在する勇気を称えるという、この騎士道的な概念だったと思う。このゲームによってもたらされる冒険の賭けは、私にとって魅力的であると同時に当惑させるものだった。ガウェイン卿が、この神秘的な騎士の決めた条件に自ら進んで従うということ、死でしか終わらない冒険に乗り出すために丸一年を費やすかもしれないということは、探求(そして実際、人生)を測る基準が、伝統的な英雄の旅とはまったく異なるものであることを暗示していた。
だから、2018年に私が中世の冒険映画を撮りたいと思い立ったとき、この詩は用意周到な選択肢として提示された。私は熱心に原文を読み直し、その可能性に興奮し、読み終わる前に脚本を書き始めた。これは間違いだったかもしれない。完成した映画をご覧になれば、私が理解しきれていないテキストを、非常に直線的で、かなり文字通りの旅をしていたことがおわかりいただけるだろう。ガウェイン卿と緑の騎士』は比較的短い作品だが、その短さとは裏腹に、大学の1学期や翻案の過程、映画製作では掘り下げられないようなテーマ的な密度がある。控えめに言っても、ここにはたくさんのことが起こっている。
実際、この作品については、解釈の深さが作者不明の意図を上回っているのではないかと思う作品のひとつである。私は映画を作るとき、テーマとなるサブテキストで映画を豊かにしようとする。また、偶発的な暗示や、より鋭敏な観客が拾い上げるような、潜在意識にある小さな意味の貯蔵庫が存在することも知っている。そして、ほんのわずかな状況証拠から導き出される、私の意図をはるかに超えた、首をかしげるしかないような投影があることも知っている。 ――しかし、私が作ったものをそこまで深く読み解く時間を割いてくれる人に、誰が反論できるだろうか?
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