トーマス・ラマール「オタクの運動への序説」(2004/06)

Thomas Lamarre, « An Introduction to Otaku Movement » in EnterText 4 (1),  2004, pp.151-187.


本稿には異なるヴァージョンのテキストがある。一方は「An Introduction to Otaku Movement」というタイトルで、Brunel Univerasity of Londonが刊行している『EnterText』第4巻第1号(2004年)に掲載された。こちらはET版と略記する。ET版のみに見られるパーツは赤字で表記する。

Thomas Lamarre, « Otaku Movement »  in Japan After Japan: Social and Cultural Life from the Recessionary 1990s to the Present, Eds. Tomiko Yoda, Harry Harootunian, Duke University Press, 2006, pp.358-394.

他方で、2006年に刊行された依田富子とハリー・ハルトゥーニアン共編の論文集では「Otaku Movement」のタイトルで掲載された。こちらはJAJ版と略記する。JAJ版のみに見られるパーツは緑字で表記する。

どちらが加筆された後のバージョンなのかは特定できなかった。それぞれに削除箇所や加筆箇所、段落ごと順番が変更された箇所などもあったからだ。本翻訳は、ET版をベースにしつつ、JAJ版のみに見られるパーツも適宜挿入した総合版である。段落の順序変更の場合、ET版の構成を優先させた。

(DeepLによる雑訳)

トーマス・ラマール「オタクの運動への序説」


まず最初に、このエージェント、このコミュニケーションを保証する力は一体何なのだろうか?

ジル・ドゥルーズ


序 純粋な内在性

 ジョセフ・トビンは、ポケモンのトランスナショナルな動きについて論じる中で、「公式な」ネットワーク、つまり企業が計画し、企業が指示した「グローカリゼーション」のプロセスは、その成功の一部に過ぎなかったと指摘する(JAJ注1)。彼は「非公式な消費ネットワーク」の重要性に言及している。「日本でテレビシリーズが放映されてからわずか数ヶ月後には、海賊版が日本国外のさまざまな場所で、アニメオタク(日本のアニメファン)たちによって、手から手へ、郵便で、あるいはインターネットを通じて販売されたり、交換されたりしていた」(注1)。日本のアニメの普及に関する他の記述でも、非公式なネットワークや海賊版への言及が見られるが、それらは市場、製品の分配=流通、利益に対する企業の規制よりも先に生まれたものである。白石さやは、東南アジアにおける『ドラえもん』市場の発展についての論考の中で、海賊版のマンガやアニメの翻訳や編集に対する企業の寛容さについて書いている(注2)。

JAJ注1 グローカリゼーションは、製品のローカル化を強調する用語である。
注1 Joseph Tobin, “Conclusion: the Rise and Fall of the Pokémon Empire,” in Joseph Tobin, ed., Pikachu’s Global Adventure: The Rise and Fall of Pokémon (Durham, NC: Duke University Press, 2004), 269.
注2 Saya S. Shiraishi, “Japan’s Soft Power: Doraemon Goes Overseas,” in Peter J. Katzenstein and Saya S. Shiraisi, eds., Network Power (Ithaca, NY: Cornell University Press, 1997), 234-71. 〔日本語版はおそらく、白石さや「海を越えたドラえもん」、『グローバル化した日本のマンガとアニメ』(学術出版会、2013)所収。白石は白石隆とともにアンダーソン『想像の共同体』邦訳者としても知られる〕

 あたかも日本アニメの公式な世界市場には「暗い前兆」があったかのようである(注3)。いわゆるオタクの活動と結びついたマンガやアニメ商品のもうひとつの動きは、企業による市場の規制、標準化、均質化に先行しているように思われる。一方では、このアニメイメージの「オタク・ムーヴメント」は、公式市場の出現(創発)に拍車をかけたり、促進したりするようである。例えば、トービンは、「ポケモンやその他の日本文化商品を海外に紹介するこうした非公式で、場合によっては違法なルートは、任天堂の世界的なマーケティング使命を妨げるというよりも、むしろ促進した」と論じている(注4)。しかし、他方では、オタクは公式市場や企業の規制から何らかの形で自律的であり続けているように見える。トービンはまた、「オタクは、消費者の落ち着きのなさ、退屈、失望に依存する現代の資本主義企業のペースに合わせるには、あまりにも忠実で、あまりにも満足している」と示唆している(注5)。奇妙なことに、オタクの活動は、企業が管理するアニメの世界的な動きを促進するようにも、遅らせるようにも見える。オタク活動は、世界市場が合体したり分散したりする(無次元の)ポイントを提供し、そこで加速し、速度を得たり失ったりする。オタクのムーブメントは公式ネットワークに先行しているが、公式ネットワークがそれを包摂しているわけではない。公式ネットワークがオタクの活動を置き去りにしても、オタクの活動は独自の形で存続する。オタク運動と企業市場の関係は、相互互恵的なものではない。両者は常に連動しているように見えるが、一方が他方を単純に反映しているわけではない。

注3 『差異と反復』において、ドゥルーズは次のように書いている。「まず、このエージェント、このコミュニケーションを保証する力は何か。雷は異なる強度の間で爆発するが、それらは見えない、感知できない暗い前兆に先立って存在し、その経路を逆方向に事前に決定する、まるで彫刻されたかのように」(119)。
注4 Tobin, 270.
注5 Tobin, 280-81.

 この点において、オタクと企業との関係は、アントニオ・ネグリがスピノザに関する著作で初めて提唱し、最近では『反政府派』〔邦訳『構成的権力』〕で再考した「構成的権力」と「構成された(または既成の)権力」の区別を想起させる(JAJ注7)。構成された権力〔=既成権力〕は、上から強制的に課される中央集権的な指揮権力を指し、共同体に押し付けられ、既成の社会的、政治的、経済的権力の形態を構成する。それに対して、構成的権力は、共同体内につねに存在し、共同体によって行使されるという点で、共同体に内在する。しかし、ネグリにとって、構成的権力は一種の二重の役割を果たす。構成された既成権力は、構成的権力なしではけっして機能(operate)できない(実際、構成的権力は構成された権力の存在そのものを維持する)。しかし、構成的権力を完全に活用したり、使い果たしたりすることは決してできない。ティモシー・レイナーの表現を借りれば、「ネグリは、構成的権力を、存在論的な出現(創発)と社会的革新を推進する、分散的=分配的な集団的欲望の力(distributed collective force of desire)として提示している」(JAJ注8)。当然のことながら、ネグリの政治学が探求するのは、構成的権力の撤退や脱出の可能性であり、その可能性により、生命という構成された権力を枯渇させることだろう(JAJ注9)。

JAJ注7 Antonio Negri, The Savage Anomaly: The Power of Spinoza’s Metaphysics and Politics, trans. Michael Hardt (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1991) 〔『野生のアノマリー スピノザにおける力能と権力』杉村昌昭・信友建志訳、作品社、2008〕and Insurgencies: Constituent Power and the Modern State, trans. Maurizia Boscaglia (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1999).〔『構成的権力 近代のオルタナティブ』杉村昌昭訳、松籟社、1999〕
JAJ注8 Timothy Rayner, ‘‘Refiguring the multitude: from exodus to the production of norms,’’ in Radical Philosophy 131 (May/June 2005).
JAJ注9 これは、ネグリとマイケル・ハートとの最近の共著『マルチチュード』で最も明確に述べられている。
訳注1 本文ではconstituent powerとconstitutive powerが区別されて使われているが、参照源と推定されるアントニオ・ネグリのLe Pouvoir constituant (1997)/英訳Insurgencies: Constituent Power and the Modern State/邦訳『構成的権力』ではこうした対立が用いられていない。ネグリが用いる対比はle pouvoir constituantとle pouvoir constitué(英訳ではconstituent powerとconstituted powers、邦訳では構成的〔憲法制定的〕権力と構成された権力。英訳Insurgencieでは2度「constitutive power」の語句が登場するが、いずれもconstituent powerの意味で登場しているため訳し間違えであるように見える)。前者は憲法の規範を産出する源泉とし、憲法的秩序に先立つものとされる(20-24頁)。広義には新たな社会を生産する力だ。後者は規制秩序を維持する権力を指す。本翻訳では、ラマールはこの論文でconstitutive power(3回使用されている)をconstituted powersの意味で使っていると推定し、「構成された権力」と訳した。

 現在、オタクの活動はネグリの「構成的権力」に似ており、アニメのトランスナショナルな流通を支え、企業の権力の範囲を拡大する点で共通する。しかし、その革新の力は規範化を拒否し、まさにそれが可能にする同質化や標準化から常に逃れ続ける。オタクは通常、(特にオタク気質な若い男性に焦点を当てた)共同体として想像されるが、この共同体を厳密に定義することは不可能だ。というのは、それはつねに流動的で、その境界は変化し続けるからだ。オタクの活動は、確立された定義可能な共同体よりも、分散的=分配的な集団的欲望の力(distributed collective force of desire)に近い。さらに、労働の核心にあるネグリの構成的権力に関する思想を想起させるように、オタクの活動もまた多くの労働を伴い、局所的で内在的な構成の力なのだ。

 ネグリにとって、資本の労働の抽象的量化と合理化以前に、存在論的な力を備えた生きた労働が存在する。「労働力は他律的でありながら自律的であり、対象であり主体である。それは労働として形成されるが、力として形成する」(注10)。資本は自らの目的を達成するために労働の力を利用しなければならないが、それを完全に支配することはできない。労働の力の何かは、抽象的労働の把握を超えている。したがってネグリは、労働を純粋または根本的な内在性の構成的力として、制御不能な力、無限に変化し続ける創造的な力として考えるよう促す(注11) 。この論考では、オタクの活動(otaku activities)を(境界付けられた文化、心理、アイデンティティではなく)労働(labor)として考えることが意味があると主張する。ネグリ(またはハートとネグリ)の用語に完全に忠実ではないが、オタクの「ファンワーク=ファンの仕事・作業(fan work)」の核心にある構成的権力の概念は、日本におけるオタクのもろもろの理論と表象の批判的分析を可能にするのだ。

JAJ注10 John Kraniauskas, ‘‘Empire, or multitude: Transnational Negri,’’ in Radical Philosophy 103 (2000): 29–39.
JAJ注11 Ernesto Laclau, ‘‘The Immanence of Empire,’’ in Empire’s New Clothes: Reading Hardt and Negri, ed. Paul A. Passavant & Jodi Dean (Routledge, 2004), 21.

 この点で、オタクの活動は、ハートとネグリの帝国批判の中心でもあるネグリの労働力の理論化を想起させる。ネグリにとって、資本が労働を抽象的に数値化し合理化する前に、存在論的な力を持つ生きた労働がある。「労働力は異質であり自律的であり、対象であり主体である。すなわち労働力は(労働として)作られるが、(力として)作る」(注6)。資本主義は労働力に依存している。資本主義は、その目的を達成するために労働力を利用しなければならないが、労働力を完全に支配することはできない。労働の力は、常に抽象的な労働の把握を超える。したがって、ハートとネグリにとって、労働とは、純粋内在の「構成的権力」を考える一つの方法であり、無限に変幻自在で絶えず創造的な、抑制しがたい力である(注7)。構成的権力(constituent power)は、構成された権力=既成権力(constitutive power)に存在論的に先行し、それを凌駕する。

注6 John Kraniauskas, “Empire, or Multitude: Transnational Negri” (Radical Philosophy 103, 2000), 29-39.
注7 Ernesto Laclau, “The Immanence of Empire,” in Paul A. Passavant and Jodi Dean, eds., Empire’s New Clothes: Reading Hardt and Negri (New York: Routledge, 2004), 21.
訳注2 ET版ではこの一つの段落がJAJ版の三つの段落箇所を代替していた。

 興味深いことに、1990年代の日本におけるアニメとオタクについての議論は、まさにアニメが世界市場でかなり目立つようになった時期に、純粋な内在性のようなものを強調し始めた。アニメの商業的台頭に惹かれたコメンテーターたちは、アニメやオタクの力について書き始め、それらが社会的、歴史的、美学的に、それまでの組織、生産、受容、分配=流通の様式を打ち破る方法に重点を置いた。アニメとオタクは、何か根本的に新しく異なるものの指標となり、多くの論者は、純粋な内在性のようなものを想起させる説明に惹かれた。多くの意味で、スーパー・フラット・アートに関する考察——特にアーティストの村上隆と理論家の東浩紀の主張——は、アニメ・イメージの文脈におけるラディカルな内在性についての決定的な声明となった。

 2000年、アーティストの村上隆は東京・渋谷で「Superflat」と題した展覧会を開催し、日本の伝統芸術とマンガやアニメなどの現代芸術に共通する特徴を探求した。この展覧会で村上は、彼が考える「断固として平面のままでありたいと願う、非常に典型的な日本的視覚感覚との関わり」と戯れた(注8)。(特に彼は、日本のアート、アニメーション、グラフィックデザイン、ファッションにおける二次元性への傾向に注目し、その平面性を17世紀、18世紀、19世紀、つまり近世あるいは江戸時代の特定の日本人アーティストにまで遡らせた。展覧会にあわせて出版された書籍『Superflat』の中で、東浩紀はスーパーフラットな視覚性の理論的意味について論じている(注9)。一般的に、スーパーフラットの美術品や理論は、遠近法やヒエラルキーを排除し、すべてが等しく同時に存在する視覚的な場の可能性を提示した。村上と東が強調するように、スーパーフラットは、マンガやアニメにどっぷり浸かったある種の「オタク世代」の経験から生まれたものであり、それは1990年代を代表するアニメスタジオのひとつ、ガイナックス・スタジオの創設者である岡田斗司夫の作品の中心的なものである。スーパーフラットは、ガイナックスのアニメシリーズ、特に庵野秀明のアニメシリーズに登場するアニメやオタクの文体的アプローチに頻繁に注目している。

注8 例えば、ロンドン王立協会での村上の講演を参照。URL:http://www.royalacademy.org.uk/?lid=831
注9 村上隆『スーパーフラット』(東京:マドラ出版、2000年)を参照。より最近の議論については、例えば、東の「スーパーフラットな日本のポストモダニティ」を参照。http://www.hirokiazuma.com/en/texts/superflat_en2.html

 ガイナックスやスーパーフラット、そしてそれらに関連するアニメやオタクに関する議論について私が興味を惹かれるのは、アニメやオタクを構成的権力のようなものから見ようとする傾向である。これらのアニメ・シリーズ、美術品、文化批評、美学理論を通して、私は一貫して純粋な内在性の効果を強調するアニメへのアプローチを目にする。あたかもアニメやオタクが(視覚、知識、共同体の)あらゆる先行する形成や組織と決別し、視聴者をポストモダンの純粋な体験に近づけるかのように。しかし、理論的野心や概念的洞察はあっても、これらの議論は内在の理論やアニメの理論には至らない。むしろ、純粋な内在性という観点からアニメを喚起する、アニメの力に関する言説の形成に向かう傾向がある。この点で、アニメとオタクに関するこの言説は、批評的介入というよりはむしろ、ポストモダンや情報化時代の徴候である。とはいえ、この言説は、アニメやオタクについて何が真に新しく、何が異なっているかを評価する上で非常に重要であり、ひいては批判的思考の可能性を開くものだと私には思える。この言説は、アニメやオタクの内在性理論を提示するものではないかもしれないが、その方向を指し示している。

 したがって、本論考では、一方ではアニメとオタクに関するこれらの議論が、自らの内在性(または構成的権力)の主張を損なう方法に注意を喚起する。これらの議論が、アニメを対象として、オタクをアイデンティティとして確立する言説へと傾倒する傾向があることを示す。そして、これらの新たな対象とアイデンティティは、過去の言説的形成物やアイデンティティと断絶するのではなく、それらを置き換え再記述するものなのだ。構成的権力に関する言説は、いわば構成された権力そのものとなる。他方、私はこの言説に可能な限り忠実に沿い、純粋な内在性への主張が、オタク運動を批判的に思考し、理論化する新たな道を拓く瞬間を特定しようとする。要するに、このエッセイは、私が「ガイナックス言説」と呼ぶものにおける二つの傾向を追跡する。一つは、同じ古いアイデンティティ(特に「男」と「日本」のアイデンティティ)を再生産または再記述する傾向であり、もう一つは、内在性の追求の中で、既成のアイデンティティと〔欲望の〕対象を拒否または挑戦する傾向である。「ガイナックス言説」は、これらの二つの傾向の間で最終的な解決や和解を提供しない。このエッセイも同様だ。むしろ、私はここでこの矛盾を内側から解きほぐそうとしている。私の目的は、「ガイナックス言説」が提示する弁証法的イメージを超えた、真に新しい形態の(歴史的)運動を想像可能にすることにある。

 労働力の問題を最初に提起することで、この暫定的な探求の枠組みを超えた思考の方向性を示唆したい。ハートとネグリの主張に従えば、労働力は二重の運動を伴う。労働力は、一方で制御されるか労働に変換される対象を提供し、他方で、創造的に自律性を保って構成された権力から逃れる可能性を約束する。言うまでもなく、物事の開かれた可能性や逃避の可能性に焦点を当てて見ることは、すべてが捕らえられ(captured)、(物質的・歴史的な理由によって)不可避に失敗するという理解とは倫理的にも政治的にも全く違う。  

 以下で議論するように、「ガイナックス言説」は構成された権力にほとんど注意を払わない。歴史や権力に関する問題が浮上すると、「ガイナックス言説」は西欧と近代を単一的なものとして設定し、そのような問題を無効化する。残念ながら、構成された権力の問題を軽視しているため、「ガイナックス言説」はつねに、構成された権力と構成的権力を混同することで、抑圧を解放と誤認するリスクを抱える。これは、オタクとアニメの文脈において特に顕著なリスクである。なぜなら、それらに関連する作品は、コミュニケーション労働とマリオ・トロントの言う「拒否の戦略」との間で揺れ動いているからだ(注12)。

注12 Mario Tronti, ‘‘The Strategy of Refusal,’’ in Italy: Autonomia, Post-political Politics (New York, 1980), 29–30.

 本論考は、主に労働の搾取や支配について扱っているわけではない。むしろ、数年前にミシェル・フーコーがモダニティにとって不可欠な力として指摘した形態——すなわち、主体化(subjection)、つまり主体の形成(the formation of subjects)——に焦点を当てている(注14)。もちろん、アニメとオタクに関する「ガイナックス言説」の教義(tenets)の一つは、今日のポストモダン日本において近代的主体のようなものは存在せず、もしかしたら主体化自体が存在しないかもしれないということだ。近代的主体を越えて考えることには非常に正当な根拠がある点には私は同意する。しかし、近代的主体への幻滅にもかかわらず、「ガイナックス言説」は、自らの立場を歴史化する必要を感じたときに、しばしば近代的主体を参照点として呼び出すのだ。さらに重要なのは、「ガイナックス言説」が、近代的主体への言及を通じて、モダニズム的な知識と幻想の構造と戯れる点だ。もし、モダニティを単純に克服する主張を掲げるのではなく、アニメとオタクの力を近代的主体を超えて考えることが目的であるならば、純粋な内在性への追求がどのような言説的形成へと傾き、それがどのように超越する可能性を秘めているかを考察することが不可欠である。

注14 Michel Foucault, ‘‘The Subject and Power,’’ in Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hermeneutics, by Hubert L. Dreyfus and Paul Rabinow, 2nd ed. (Chicago, 1983), 212–13.

「ガイナックス言説」(訳注3)
 日本におけるアニメに関する言説には、驚くべき規則性が見られる。ガイナックス・スタジオの創設者であり、オタク文化の推進者である岡田斗司夫の作品が、ガイナックス・スタジオの作品、特に庵野秀明のアニメシリーズや映画とともに、アニメとオタクに関する言説の形成の場のひとつを構成していることは、すでに述べたとおりである。ガイナックスの成功は、アニメ映画『大立宇宙軍 オネアミスの翼』(Wings of Honneamise, 1987年)に始まり、庵野監督の2つのシリーズ『トップをねらえ!』(Gunbuster, 1988)、『ふしぎな海のナディア』(Nadia: the Secret of Blue Waters, 1990年)である。これらのアニメは、2部構成のOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)である『ヲタクのビデオ』への道を開いた。このオタクの 「モキュメンタリー 」とガイナックス・スタジオの設立については、ガイナックスの成功の集大成とみなされることの多いシリーズと同様、後に詳しく説明する。その集大成とは庵野監督の『新世紀エヴァンゲリオン』(Neon Genesis Evangelion, 1995年)である。

訳注3 ラマールはこれ以後、The Gainax Discourseという語句を用いて、岡田斗司夫、庵野秀明、東浩紀、村上隆などを総合した枠組みとして語るため、カギカッコ付きで「ガイナックス言説」と訳す方針をとった。原文では、一度の例外を除き、小見出しや本文に“”は付いていない。また、同じような負荷のかけられた語句に は、the Gainax otakuology(後出)があるが、こちらはカギカッコなしでガイナックス的オタク学と訳出した。

 やや独特な方法ではあるが、その理由を後ほど説明したい。というのは、私は「ガイナックス言説」に、アーティストの村上隆の「スーパーフラット」概念と、文化理論家の東浩紀との議論も含めているのだ。東浩紀の主要な著作は、デリダを日本のポップカルチャーとの関係で再考した『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(1998年)から始まる。東はさらに、『不過視なものの世界』(On Overvisualized World, 2000)と『動物化するポストモダン:オタクから見た日本社会』(Animalising Postmodern: Otaku and Postmodern Japanese Society, 2001)において、アニメとオタクに関する思考の基盤を確立した。彼は、村上隆の『スーパーフラット』展のカタログへの寄稿を通じて、村上隆の芸術と自身の理論との重要な関連性を示している。

 明らかな強調の差異はあるものの、村上と東はアニメとは何か、そしてどのように機能するかという点で共通の理解を示している。その多くは岡田とガイナックスの主張と一致しており、時には明らかにそれらから派生したものだ。一般的に、東の著作の理論的強調点は、私が「ガイナックスの言説」と呼ぶものの多くの含意を引き出している。アニメとオタクに関するこのような言説の規則性は、そのような言説がアニメ娯楽の制度的規制との何らかの関係を暗示しているように見える限りにおいて、フーコー的な意味でのアニメに関する「言説」とさえ言えるかもしれない(注10)。しかし、私の目的はガイナックスのアニメとオタクに関する言説の起源をたどることではない。また、これらの議論が日本における他の言説とどのように結びついているのかについても、本稿の範囲内ではない。アニメに関するこうしたさまざまな議論について私が関心を抱いているのは、アニメのイメージがどのように機能するかについての共通認識が、特にオタクという特定のカルト・ファンの形成に関連して生まれている(創発している)ことである。この言説の中心にあるのは、「分配的=流通的な視覚機能(distributive visual function)」、つまり視覚的な場としてのアニメの構成的権力のようなものの特定である。しかし、まずは東浩紀、村上隆、岡田斗司夫、庵野秀明に共通するアニメに関するいくつかの考え方をスケッチすることから始めよう。

注10 この言説の制度的側面を検討する際には、オタクを犯罪者やアウトローとして捉える認識から始める必要がある。例えば、1989年に連続幼児殺人犯の宮崎勤が逮捕された後、彼の自宅を調査したカメラクルーや報道陣は、少女漫画のコレクションや少女文化を分析する書籍(大塚英志のものを含む)を発見した。シャロン・キンセラ『成人向けマンガ:現代日本社会における文化と権力』(ハワイ大学出版局、2000年)、126-128頁を参照。アニメと犯罪の関連性は、マンガとアニメの危険性、そしてオタクの異常性に関する広範な議論を招いた――そう、メディアパニックだ。オタクの世界の境界を定義し始める監視と規制の形態を通じて、言説の形成が感じられたのはこのようなパニックの中でのことだった。もちろん、「ガイナックス言説」は、監視や規制の制度化された形態を強化する意図はない。だが、アニメのカルト的なファンダムのグレーゾーンに焦点を当てることで、観察の対象となる場を浮き彫りにする。このような議論の構造を考察するならば、インターネットの規制と、流通を監視する以前の試みとの関係を必ず検討する必要があるだろう。

 第一に、これらの議論はアニメの系譜を共有している。手塚治虫の漫画をテレビ化した『鉄腕アトム』(Astro Boy, 1962年)で初めて明らかになった日本のリミテッド・アニメーションのスタイルにその起源を求め、アニメを狭い意味で定義しようとしている。『宇宙戦艦ヤマト』(Space Battleship Yamato, 1974年)、『銀河鉄道999』(Galaxy Express 999, 1979年)、『機動戦士ガンダム』(Mobile Suit Gundam, 1979年)、『超時空要塞マクロス』(Superdimensional Fortress Macross, 1982年)などのテレビシリーズや、『アニメージュ』などのファン雑誌の登場によって、リミテッド・アニメーションのスタイルがさまざまに変化し、アニメの独特のルック&フィールが確立されたのは、1970年代後半から1980年代初頭にかけてのことである。これは、村上隆の展覧会「Superflat」のカタログで、彼の作品に影響を与える独特のアニメの美学を定義するために、アーティストが述べている基本的なスケッチである(注11)。もちろん、アニメに関連するファン活動やシリーズは他にもいろいろある。しかし、この基本的な歴史的系譜はガイナックスの言説の中心である。この歴史的系譜は、岡田の著書や、後述するガイナックスの『おたくのビデオ』にも、ほぼ同じ形で登場する。驚くことではないが、これらの異なる論者たちは、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』の商業的大成功を、この系譜の集大成(そして保証)と見ている。

注11 村上隆『スーパーフラット』(東京:マドラ出版、2000年)。

 このアニメの系譜(genealogy)は、男性向きのシリーズや活動を強調するものである。女性マンガ家の作品に注目する向きもあるが、彼女たちの作品は、かわいらしくて魅力的な女の子のイメージの源として大きく取り上げられている(注12)。さらに、この系譜学は歴史的な問題を注意深く避けている。アニメの歴史的な系譜を確立する一方で、どのように歴史を整理するかという問 題には何の関心も払われていない。東はそのような問いかけを単に避けている。彼はアニメをポストモダンとポストヒストリカルに位置づける。アニメは歴史を超えたもの、歴史の外側にあるもの、歴史の後にあるものなのだ。同様に、こうしたアニメの議論は物語分析を避ける傾向があり、ファンはアニメの物語ではなく、アニメのイメージに関わるものだと主張する(注13)。言い換えれば、歴史の終わりとともに、物語の終わりという感覚がある。実際、東は『動物化するポストモダン』の中で、物語とデータベース構造の一般的な対立を紹介している。どうやらガイナックスの言説は、歴史を近代の壮大な目的論的物語と混同しているため、歴史や物語を排除する必要があると感じているようだ。しかし皮肉なことに、こうした論者たちが歴史的な発言をするとき、彼らは主にテレビからVTR、コンピューターに至るまで、新しいテクノロジーの漸進的な出現(創発)に言及している。歴史はメディア史として回帰するが、その最も壮大な形は直線的進化である。

注12 同人誌やアマチュア漫画家の系譜(lineage)は、毎年開催されるコミケ(コミックマーケット)で最も目立つ作品を生み出しており、アニメのイメージ形成に不可欠な役割を果たしている。女性作家が描く少女漫画作品が、多くのオタクの芽生えを惹きつけた——これが、男性向けのロリコン漫画の基盤を築き、そのイメージはモデルキットやアニメのヒロインと広く交差する。
注13 イメージのなかの運動の問い(内部モンタージュまたは多平面イメージ)は、特に物語の動きとの関係において、私にとって特に重要なテーマである。この点については、「アニメーションからアニメへ」(Japan Forum 14.2、2002年)で議論した。これらの評論家が「分散型=流通的なイメージdistributive image」への転回を提唱する一方で、イメージのなかの運動の問いを提起しつつも無視している点には注意が必要だ。なぜなら、彼らはイメージのなかの運動とイメージのあいだの運動の関係、そして物語との関係を無視する傾向があるからだ。例えば、東は「物語」と「データベース」を対立させるのだが、必要なのは物語へのより良いアプローチである。この文脈では、倒錯(perversion)がデフォルトの準物語的な運動として出現(創発)する。

 このような理由から、私はこれらの議論を理論というより言説と見ている。彼らの理論的パラダイムは、根本的な問いに取り組むというよりも、歴史的瞬間を定義したり、一連の対象を宣伝したり、アイデンティティを確立したりするためにあるように見える。とはいえ、この言説は理論的に興味深いものを明らかにしている。アニメ美学とオタク文化の核心にある分配的=流通的機能(distributive function)であり、それは構成的権力(constituent power)として機能している。この分散的=分配的機能は、主に視覚的あるいは美的観点から定義される。

 これは第二の共通点である。これらの論者は、アニメ・イメージの操作、アニメの美学について共通の感覚を持っている。ここで重要なのは、視覚の変容が疑われることであり、それはまた、視聴者がアニメの対象とどのように関わり、関係するかを変容させる。例えば、岡田は『オタク学入門』(1996年)の中で、1980年代初頭のファンの過剰なまでの注意深さ、ほとんど強迫的な視聴行為に注目している。彼らは『マクロス』のようなお気に入りのシリーズのビデオを夢中になって再生するうちに、エピソード内やエピソード間のアニメーションのスタイルの違いを感じ取るようになった。その結果、他の視聴者からは欠点や矛盾、些細なディテールと思われるような点にも新たに注意を払うようになった。しかし、オタクにとっては、このような一見取るに足らない細部が視聴体験の一部となり、視聴体験が物語を読むというより、情報を探すためにスキャンするようなものになる(東が物語構造の終焉とデータベース構造の台頭について考えたのはこのためだろう)。事実上、周辺的であったものが中心的となる。というより、中心的と周辺的の視覚的秩序が崩れ、情報の非階層的な視覚野が生じるのである。東は、「過剰に可視化された世界 」や 「データベース構造 」という概念と類似したものを見出している。岡田と東は、密度が高く階層的でない視覚空間に注目することで、創発的特性の理論で想起されるような、分配的=流通的な機能とでも呼ぶべきものを発見した(そして発明した)。

 創発の理論は、システムに内在する自己組織化能力に基づいて、分配=流通的に相互接続された要素の単純な、ほとんど最小のネットワークからパターンが出現(創発)することに注目する(注14)。創発特性に関する統一された公式理論は存在しないが、観察と実験から、高密度に接続された集合体が創発特性から逃れることは困難であることが示唆されている。要素だけでは予測できない内部的なまとまりが生じる。何が起こるかは、すべての構成要素が何をしているかの関数である。パターンが現れるのだ。この自己組織化能力を、構成要素の力という観点から考えることもできるだろう。パターンを定量化したり、組織化したり、あるいはその他の方法で機能させることは可能だが、合理化を免れたり、超えたり、逃れたりする、異質で自律的な力が存在する。これはまた、すべての要素が局所的かつ世界的に相互作用する限りにおいて、協力的なシステムでもある。

注14 Francisco Varela, Evan Thompson and Eleanor Rosch, The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience (Cambridge, MA: MIT Press, 1993), 86-96. 〔フランシスコ・ヴァレラ、エヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュ『身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』田中靖夫訳、工作社、2001、〕。この本での議論は、ヴァレラらが、自己を、創発的特性として、また仏教との関係において、別の考え方として提示したいと考えているという点で、特に適切だ。

 「ガイナックス言説」は、アニメ映像の空間にも同様のものを想像している。アニメ映像の濃密で非階層的な視覚空間を強調するのは、まさに分配=流通的な相互接続(distributive interconnections)の空間を想像しようとする試みであり、そこからパターンや模様が浮かび上がる。しかし、そのパターンは要素から予測できるものではない。ガイナックスの言説が協同システムのようなものを導入しているのは、オタクについての議論においてである。言い換えれば、非階層的な視覚野のアイデアに暗黙的に含まれる分配=流通的機能は、創発的な視覚的一貫性を可能にするだけではない。それはまた、この言説の第三の共通の関心事である協働システム=協力体制(cooperative system)をも示唆している。

 第三に、この視覚的階層の崩壊と関連して、生産者の階層の崩壊という感覚が生まれます。例えば、村上隆の「スーパーフラット」の流れ(主に日本のアート)において、彼はアニメーター兼デザイナーの金田伊功が手がけた『銀河鉄道999』(映画)のシーンを特筆している(注15)。彼はこれにより、シリーズの本質的な重要性から見て周辺的(peripheral)またはマージナルなように見えるアート制作に注意を向けている。しかし、この非階層的(non-hierarchical )な視覚的領域には周辺的なプロデューサーは存在しない。ガイナックスの議論は、「真の」アニメ視聴者(オタク)が、監督やプロデューサー、脚本家と同じくらいキャラクターデザイナーやアニメーターの作品に注意を向けることを強調する。例えば岡田の主張は、アニメシリーズは多くの異なるクリエイターによる作品であり、したがって単一の物語は存在しないというものだ。 これは、オタクファンが矛盾に注意を払うことを、新しい美学と新しい受容形態として論じた岡田の議論から導き出されたものである。オタク以外の視聴者にとってはスタイル上の矛盾のように見えるものが、オタクにとっては一連のアーティストやプロデューサーの作品の濃密な集合体として見え、そこから協力体制が生まれている。要するに、制作はビジョンと同じくらい分配=流通的である。

注15 『銀河鉄道999』のほか、金田伊功は宮崎駿監督の数々の作品で作画監督を務めた(訳注4)。『天空の城ラピュタ』(Castle in the Sky, 1986年)、『魔女の宅急便』(1989年)、『となりのトトロ』(1988年)、『もののけ姫』(1997年)、そして『ふしぎ遊戯』テレビシリーズ(1995年)。村上らにとってのアニメ美学のパラダイムである金田が、宮崎のような非アニメ映画とされる作品にどのような影響を与えているかを考えるのは興味深い。
訳注4 金田伊功は作画監督を担当していないので、ラマールは何かを混同している。

 第四に、この生産階層における分配=流通の崩壊は、ファンとプロデューサーの関係にも及んでいる。プロデューサーは、何よりもまずファンであり、ファンは新進のプロデューサーだ。ファンは、ガイナックスの創設者たちのように実際にアニメーションスタジオを設立するわけではないものの、消費に非常に積極的であるため、その消費は生産に匹敵するものとなる。まるで、ファンが共同プロデューサーや共同協力者になったかのようだ。この協働システム=協力体制は、情報要素が密接に詰め込まれた結果、内部の一貫性から予測不可能な形で出現しているようだ。その結果、オタクの協力者は、制作現場(a site of production)というよりも作戦場(a theatre of operations)のような、広範な活動分野で「働く」ことになる。しかし、これはどのような協力なのか? アニメに関する言説では、ファンの受け止め方は、アニメの世界との必然的で執拗な協力関係として特徴づけられる傾向がある。この言説の中で、差異、距離、対立について考えることは可能だろうか? それとも、それは、調和のとれた協力的な社会、つまり「ジャパン・インクJapan Inc.」という日本の「古い」イデオロギーを単に再構築しているだけなのか?

 このような問題に対処するため、主体という問題に直面することになる。これは、これらの異なる評論家が概ね一致する第五のテーマである。基本的に、彼らはすべて、定義可能な主体的位置との根本的な断絶を指摘している。アニメの視覚的な分配=流通的機能(distributive function)は、視覚的位置の形成を妨げる非パースペクティブ的な領域(a non-perspectival field)を伴い、したがってその分配=流通的機能は視覚領域に対して管理可能または制御可能な関係を排除するのだ。 言い換えれば、分配=流通的な視覚的領域は知覚的距離の崩壊を伴い、その結果、画像に対する純粋に情動的な関係(a purely affective relation)が生じる(注16)。アニメはテレビの枠組みから脱却し、視聴者と画像の間の距離は情動のモメントへと崩壊する。特徴的に、それはフレームを拡張された没入型アニメ世界へと分解し、アニメキャラクターを軸に展開される――具体的には、「コスプレ」(アニメキャラクターの衣装を着用する行為)や、ファンが自分で成形や組み立てができる(can mould or assemble themselves)アニメキャラクターのモデルキットなど、個人ならではの工夫を加えた形において。森川嘉一郎は、アニメがまず個人の空間を支配すると指摘している。  寝室やスタジオアパートメントは、特定のアニメシリーズやキャラクターの聖域となる。その後、その趣味や嗜好が都市全体に浸透し始める。その結果、従来の空間的・都市的な階層を崩壊させ、都市景観を前例のない密度を持つ視覚的領域に変える「パーソナポリスpersonapolis」が形成される(注17)。 要するに、都市全体が視覚情報の分配=流通的領域(a distributive field of visual information)となり、定義可能な主体的位置の終焉は、massist 美学に基づくマス主体(mass subject)を生み出す。

注16 純粋な情動のモメントとして、この視聴者と映像の間の距離の崩壊は、1910年代から1920年代の映画理論におけるクローズアップの議論を思い起こさせる。実際、新しいメディアとしてのアニメの議論は、しばしば新しいメディアとしての映画の議論を反響させたり、繰り返したりする。重要なのは、新しい物質的条件と新しい経験形態との関係である。初期の理論家たちは、映画のイメージがいかに枠を超え、劇場から街頭へと移動していくかをしばしば強調した。
注17 森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(幻冬舎、2003)。

 まとめると、私が「ガイナックス言説」と呼ぶものが発見するのは、アニメ・イメージに働いている分散的=分配的な機能であり、その機能が語るのは、歴史的関係、アニメ制作における労働組織、生産者/消費者のヒエラルキーなど、あらゆる種類の受容されたヒエラルキーや組織の終わりなのだ。予想通り、ガイナックスは、受動的で情熱的な男性ファンや強烈な少女像など、性的なヒエラルキーについては当惑し、両義的なままである。「ガイナックス言説」は、異性愛の終焉を告げるものではない。しかし、その倒錯を主張している。倒錯の中にこそ、歴史的関係が幻想的な形で現れるからである。「ガイナックス言説」は、アニメという分配的な視覚領域を喚起し、あらゆるヒエラルキー(歴史、近代、主体のヒエラルキー)の終焉を主張する。非階層的な視覚的場の発見は、創発の理論を暗示する。しかし、創発の理論化がなければ、この言説は、対立も差異もない空間となる協力的なシステムを見ることになる。こうして「ガイナックス言説」は、大衆主義的な(非)組織のファシズム的イデオロギーに近づいていく。しかし、その主張をサブカルチャー(オタク)に限定している限り、それはドゥルーズとガタリが「ミクロファシズム」と呼ぶものに近い(注18)。その結果、オタクの違いが重要になってくる。オタクは本当にサブカルチャーなのか、それともメインストリームなのか。というのも、オタクがメインストリームや日本とは異なる存在である限りにおいてのみ、ガイナックスの言説に日本国内における差異の動きを見出すことができるからだ。そうでなければ、アニメをめぐる言説は単に国家をめぐる言説となり、ガイナックスの言説はとりわけ強力なナショナリズムを刺激するかもしれない。

注18 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは「ミクロファシズムだけが、包括的な問いにたいする答えを提供する。なぜ欲望は自身の抑圧を欲望するのか、どのようにして自身の抑圧を欲望することができるのか、という問いにだ」と書く。A Thousand Plateaus, trans. Brian Massumi (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1987), 215.『千のプラトー 資本主義と分裂症』宇野邦一ほか訳、河出文庫、中、2010、110頁〕 

 「ガイナックス言説」がオタクのサブカルチャー的地位を想起させるだけでなく、オタクの距離、つまりメインストリームや他のオタク、さらには自分の対象との差異を主張するのはこのためであることは確かだ。ヲタクという言葉自体、離隔と孤立を意味する呼び方に由来する。つまり「あなた 「は 」あなたの住まい」であるということだ。誰かのことを「あなたの住まい」と呼ぶことは、距離を置いた、高度に形式化された関係を意味する。オタクであることは、このように形式的で潜在的に空虚な関係を意味する。最近では「ガイナックス言説」でも女性オタクの可能性を認める傾向があるものの、私の〔この言葉の〕使用時においては、オタクを男の子や男性と考えるバイアスが依然として一般的だった。このように、視覚的・社会的ヒエラルキーの崩壊は、イメージの耐え難い近さ(知覚的な距離、関係、位置のない純粋な感情)という感覚を与える一方で、アニメのイメージは、むしろ逆説的に、新しい種類の距離として解釈される。例えば、岡田斗司夫と大塚英志は、オタクの識別力を強調する。中心も周縁もない分配的な場の目利きとして、おたくは特殊で高度に洗練された視覚的スキルを要求する。彼らは、おたくと、近世の都市生活における「浮世」、つまり目の肥えた遊戯者たちの世界と結びついた、仏教の影響を受けた出費の概念との間に類似性を見出している(注19)。あるいは、コジェーヴの言葉を借りれば、東はこの世界についての考えを、ポスト歴史的なスノッブさ、つまり人間を野蛮な物質主義的関係から切り離す、動物化するポストモダンのような無遠慮な差別の方向へと拡張したのである。識別力する見識とスノッブ性は、アニメやオタクに関する言説の中で、ある種の差異感を維持するための2つの方法であり、日本の大衆文化一般からオタクが自律しているという感覚である。

注19 『物語消費論 「ビックリマン」の神話』(新曜社、1989年)における江戸時代の消費に関する大塚英志の記述を、岡田斗司夫は『オタク入門』におけるオタクについての記述に応用している。Marc Steinberg,  “Otaku Consumption, Superflat and the Return to Edo” (Japan Forum 16.3, 2004).を参照。

 同様に、オタクの活動における遊びの重要性を強調したいが、それは歴史以後の俗物主義や、前資本主義的な消費・支出様式との関連においてではない。むしろ私の関心は、イメージの受容と普及におけるオタクのほとんど熱狂的な活動と生産性である。オタクの活動が労働と区別できなくなり、労働力とコミュニケーション労働の間を行き来するのはここである。ここでこそ、非階層的で協同的なシステムのアイデアに喚起される構成的権力が、理論的にも実践的にも、オタクの差異がオタクの運動に差異をもたらすかもしれない。

オタク学:弁証法的緊張から倒錯へ

 オタクの定義が議論される際、最初に思い浮かぶのは岡田斗司夫である。日本でも最も成功したアニメーションスタジオの一つを設立した人物として、岡田の発言は実践的かつ商業的な面で大きな影響力を持つ。自らを「オタクの王」または「オタクキング」と称する岡田は、アニメを真剣に検討に値する対象として促進するために人生を捧げてきたようだ——『オタク学入門』(1996年)から『オタクの迷路』(1999年)や『失われた未来』(2002年)といった後続の作品まで。特に注目すべきは、彼がアニメとオタクを学術的な注目に値するものとして位置付けようとしている点だ。オタクの自称代弁者またはスポークスマンとして、岡田は「オタク知識」を、学問的な知識形態と肩を並べる知識の形態として確立することを目指している。彼は1996年にウェブ上で「国際オタク大学」(www.netcity.or.jp/OTAKU/univ/)を設立し、大学で定期的にセミナーを開催している。もちろん、岡田の努力が自己宣伝なのか、オタクへの弁明なのかを判断するのは難しい——畢竟、彼はオタクの王様だからだ。彼のオタクへの真摯な擁護を、皮肉や冗談として読むべきなのか? 「オタク学」を通じて、岡田は「遊びの規律(プレイ・ディシプリンplay discipline)」または「規律的遊び(ディシプリン・プレイdisciplinary play)」と呼ばれるようなものを構築した。これは、アニメとオタクに関する知識の規律化と、反規律的な傲慢さの間を揺れ動くものである。  

 岡田は、1992年にガイナックスがリリースした2部作のOVAシリーズ『おたくのビデオ 1982 & 1985』(英語タイトルも同じ)の脚本を執筆した。オタクを表現し評価する最初の試みの一つである『おたくのビデオ』は、岡田のオタク観を提示するだけでなく、ガイナックススタジオが正当な後継者となるアニメーションの系譜を確立している。

 『おたくのビデオ』は、実質的に岡田がガイナックスをアニメオタクのアイデアから生まれた企業として描いた起源の物語であり、アニメーションと「モキュメンタリー」を交互に織り交ぜた構成となっている。アニメーションのシーンでは、アニメへの情熱が彼らをスタジオ設立へと導く二人の友人の物語が描かれる。物語は、平凡で親しみやすい大学1年生(久保健)が、高校時代の友人(田中)との偶然の出会いが人生を変えるところから始まる。田中(岡田の代役とされる人物)は、アニメのテレビシリーズ、マンガ、ファンクラブ、アマチュア出版物に夢中になる真剣なオタクだ。久保は徐々に田中の世界に引き込まれ、健康的な普通の生活(そして彼女)を捨て、田中のオタククラブに参加する。田中とともに久保はアニメに熱中し、二人はガレージモデルキット会社を設立する——〔その会社が売り出す商品は〕アニメやマンガシリーズのキャラクターの個人用モデルを組み立てるキットであり、通常はセクシーな女性をモチーフにしたもので、久保と田中の豊満な創作物「ミスティ・メイ」のようなものだ(注20)。最初の会社の商業的買収で底辺まで落ち込んだ後、二人の友人はついにアニメーション会社で成功を収め、世界全体を「オタク化(otakunising)」する夢を膨らませ始める。これはガイナックス・スタジオの設立物語だが、幻想的な形で描かれている。若き情熱の勝利を物語る一方で、知識の空間を構築する数多くの参照に満ちており、その習得には多大な努力が求められるようだ。

注20 英語版ビデオリリースのライナーノーツ(オンラインで入手可能)は、参考文献をたどる素晴らしい仕事をしており、この情報密度の高い分野をよく理解させてくれる。

 「オタクの肖像」と題されたモキュメンタリー形式のインタビューシリーズが、アニメーションストーリーと交互に展開されるのだが、これらの肖像では、『おたくのビデオ』が、人生の異なる時期に異なる形でアニメに没頭した多様なオタクたちを紹介する。ある平凡なビジネスマンは、大学時代における「同人誌」(ファンが作成したマンガで、時には「ファンジン」と訳される。既存のキャラクターや全く新しいキャラクターとストーリーを扱う作品)への情熱を語る。そのビジネスマンは、自身のオタク時代を人生で最も良い時期として振り返る。他のオタクはポルノ、武器、ガレージキット、ゲーム、収集、または海賊版に夢中になっている。アメリカ人のファンの中には、日本をアニメの故郷として熱中する者もいる。つまり、オタクはアニメへの執着以外の行動や信念に基づいて定義できる単一のタイプではないのだ。彼らは皆男性であり、一般的にホモソーシャルなバイアス(後で触れる)があるが、彼らの男性性はそれほど無条件なため、悲惨なほどに映る——英語の「pathetic」の二重の意味で〔痛ましい/馬鹿げたの意味で〕。彼らは情熱的で無力だ(helpless)。その情熱が彼らを無力にする。なぜなら、情熱が彼らをアニメに身体と魂ともに従属させる(subject)からだ。 若者の情熱や若さへの強調は、アニメのイメージへの子供のような服従=主体化(subjection)を浮き彫りにする。

 重要なのは、規律を自己修養(self-cultivation)へと変容させる動きだ。『おたくのビデオ』が目指すのは、規律的な形成と従属から離れ、自己の修養へと向かうことである。アニメーションの物語は内輪の参照に満ちており、モキュメンタリーセグメントも統計情報の洪水を浴びせる。そこでは知識の生産が常に想起されているのだ。さらに、オタク活動の強度は、オタクであることが単に大きな努力だけでなく、最高の規律を要求することを示す。知識の空間を構築するこのオタク学は、支配的な構造(disciplinary formation)に近づき、従属を暗示する。しかし、ビジネスマンがオタクだった学生時代への懐かしさを示すように、オタク労働(otaku work)は学校や企業とは違う。つまり、既成の労働形態への拒否の戦略——既成の労働形態への抵抗——が存在するのだ。オタク労働は、現代の規律的社会に抵抗する、仕事と知識生産の代替的な空間であるのだろうか? それとも、オタクのスキルが至高の地位を占めるポストモダンな社会への憧れ、つまり、規律の境界が絶え間ない学習と無限の変容をもたらす、ドゥルーズが「コントロール社会」と呼ぶ社会で成功したいという願望なのだろうか(注21)。

注21 Gilles Deleuze, “Postscript on Control Societies,” in Negotiations, trans. Martin Joughin (New York: Columbia University Press, 1995).〔ジル・ドゥルーズ「追伸 管理社会について」、『記号と事件 1972-1990年の対話』宮林寛訳、河出文庫、2007〕

 『おたくのビデオ』は、二つのオタク的生産様式のあいだの緊張を上演(stages)している。 それは一方では、新しい技術を通じて仲介される他の種類のネットワークに重点を置くオタクの活動は、労働力の組織化と定量化に関する従来の方法を拒否しているように見える。実際、オタクの活動は社会学的にまたは定量的に議論するのが非常に困難だ。企業戦略や市場を追跡する方が簡単だ。オタク運動は、その境界が流動的で透過的であるため、定義や議論が非常に困難である。明らかに、アニメがあるところならどこでも発生する。だが、アニメ視聴者とオタクの境界線など、どうやれば引けるのか? アニメ視聴者とアニメオタクの差異は、強度と持続期間にある——興味のレベル、関与の度合い、または情熱の質だ。このような差は定量化に抵抗する。この点において、オタクの活動は商業的にも知的にも完全に掌握不可能である。市場や企業戦略はオタク運動を活用するかもしれないが、トービンの指摘するように、それを予測したり依存したりすることはできない。この点において、オタク運動はマリオ・トロンティが「拒否の戦略」と呼ぶものを想起させる(注22)。定量化できないオタク活動は、従来の労働組織に課題をもたらす。オタク運動を方向付けたり活用したりできない企業は、それを盗用や海賊行為と呼ぶのだ。

注22 Mario Tronti, “The Strategy of Refusal,” in Italy: Autonomia, Post-Political Politics (New York: Semiotext(e), III.3, 1980, ed. Sylvère Lotringer and Christian Marazzi), 29-30.

 一方、オタクに関連する種類の仕事は、すでに労働の場workplaceにおいて構成された権力(constitutive power)の影響下にあるように見える。マンガやアニメの収集、交換、翻訳(これらは通常、ダウンロード、投稿、ファイル変換などを含む活動だ)、これらの行為はすでに労働の場において、コミュニケーション労働の一形態として制度化されているのではないだろうか。この点において、オタク運動は社会のポストモダン化の一環として、ポストフォード主義、フレキシブルな蓄積、文化経済といった用語で議論されてきた労働過程の変容の一部として現れる。ジョン・クラニアウスカスは指摘するように、生産プロセスのこのような変化は、「本質的に、経済的基盤による上部構造の技術的支配、生産における『文化的転換』であり、エンターテインメント、情報高速道路のシンボルと電子的文法、社会的知識と感情を労働に活用する」(注23)。要するに、オタクに関連するいわゆる非公式な労働は、労働拒否の戦略とポストモダンのコミュニケーション労働の活用の間を揺れ動くのだ。 オタク運動は、生産と労働のプロセスの歴史的変革と共に生まれ、経済間の分節化=接続(articulation)の点として機能するかもしれない。オタク運動——非公式な労働としての——は、労働でありながら労働ではない。  

 『おたくのビデオ』は、規律と自己修養の間の揺れ動きを強調することで、両方の可能性を同時に提供する。たとえば、各オタクのプロフィールに付随するステータス情報は、オタク文化が誰もが想像するよりもはるかに広範に浸透しているという印象を与える(これにより、オタクの活動が現代の規律化を既にあらゆる場所で侵食していることを示唆する)。また、これは規律化ではないという印象も与える。むしろ、彼らのオタクとしての活動は、これらの男性が自己を認識し、自己を磨くことを可能にしている。たとえば、オタクが自身の物語を語る際の自己意識的なトーンがある。彼らは、自身の欲望の最も深いメカニズムを理解しているようだ。アニメの誘惑に抗うことはできないかもしれない。彼らは、その豊満で力強い女性像への隷属(enslavement)を避けることができない。  しかし、彼らはこの情熱を明晰に、自覚的に、そしてほぼ理性的に認識している。要するに、『おたくのビデオ』において、アニメは一方では主観的な技術——文字通り最新の視覚技術と結びついたもの——として、主体的位置を構築するが、他方で『おたくのビデオ』は、新たな技術への服従がフーコーが「自己のテクノロジー」または「自己の配慮」と呼んだものを可能にする遊びの空間を喚起するのだ(注24)

注24 私がここで考えているのは、フーコーの後期の著作、特に『性の歴史第3巻 自己の配慮』だ。この中でフーコーは、主体がどのように真理との関係に入っていくのかを明らかにしようとしている。フーコーの仕事は西洋の伝統(そして、真理の歴史の最初のエピソードはプラトン主義から始まるというニーチェ的な考え)を直接の基盤としているが、このような問題は、日本や中国の文脈においても、新儒教の歴史、仏教の歴史、そして自己と真理に対する主体の関係性の中で生じていることを、アナロジーとして押し付けることなく提案したい。この文脈で、カルト的ファンの文脈におけるこのような自己の配慮について論じることで、前近代と近代、あるいはポストモダンの主観的形成の間に、ある種の原初的な連続性を暗示するつもりはない。むしろ、フーコーが想像したような主体形成に内在する緊張を引き出したいのであり、それに対して後世の作品は敏感なのである。フーコーの後期作品に関する最も優れた説明のひとつは、ベアトリス・ハン『フーコーの批評プロジェクト』(Béatrice Han, Foucault's Critical Project: Between the Transcendental and the Historical (Stanford, CA: Stanford University Press, 2002)である。

 『おたくのビデオ』のアニメ化された物語において、自己修養の技法はしばしば克服の形態を帯びる。自己修養がその姿を現すのは、遊びを通じて規律的な形成を超越する手段としてだ。例えば、久保と田中がアニメスタジオを設立した最終的な勝利は、若き日の情熱に忠実であれば、最終的に成功するとの考えを強化する。若いファンはいつか世界をオタク化させるかもしれない。当然、このような個人の勝利の物語は「自己形成のイデオロギー(the ideology of the self-made)」を想起させるものであり、そのイデオロギーは、個人主義と商業的進歩についてのヴィクトリア朝的-明治的な理想(例えば「立身出世」や自己形成の思想、商業的成功、世界での成功を追求する思想)から連なっているものだ。 同様に、フーコーの読者は、現代国家に適した自己統治的主体の出現(創発)を察知するかもしれない。それでも、『おたくのビデオ』が新自由主義的イデオロギーやポストモダンの規律化バージョンを提示する解釈を否定するつもりないが、それは単純にこれらのいずれかに分類されるものではない。イデオロギーや規律として自動的に回収できない遊びの空間を求めるその試みは、労働の拒否を暗示し、労働の力を想起させる。  

 この点で、「ガイナックス言説」が物語よりも映像や情報を重視していることは、有益な手がかりとなる。結局のところ、「おたくのビデオ」を見る体験は、商業的勝利の物語性だけではない。それは同様に、チャートやグラフ、インタビューといった情報の経験でもある。情報のレベルにおいて、「おたくのビデオ」はコミュニケーション労働を構成的権力へと変換しようと努めている。さまざまな視覚技術や情報技術を駆使したオタクの仕事は、職場の新しい合理化様式とうまくかみ合うかもしれないが、『おたくのビデオ』は、このコミュニケーション的労働を、境界のない封じ込めのないものとして提示する。この労働はコミュニケーション的であり、病気が伝染するように、絶え間なく、容赦なく、階層に関係なく、空気感染するレトロウイルスのように、あるいは笑いのように広がっていく(注25)。こうして『おたくのビデオ』は、おたくの仕事を構成的権力として、労働力として提示する。そして、先に投げかけられた問いが再び戻ってくる。すなわち、オタクと、アニメを見たりマンガを読んだりする人との違いは何だろうかという問いだ。

注25 ユーモアの仕事(や力)は、どんなに真剣に取り組もうとも、簡単に論破されたり、共犯だと糾弾されたり、そうでなければ手放されたりすべきではない。

 多くの論者は、オタクの強迫観念的な性質を、真面目さや真剣さの表れだと見ている。しかし、強迫観念が遊びと区別できない場合、遊びの空間を構築する場合はどうなるのだろうか。アニメを単なる娯楽として扱う視聴者は、アニメをより正常な関係の中に持ち込み、遊びの可能性を否定しているのではないだろうか?オタクのビデオ』の特徴のひとつは、仕事と遊びの関係、学問の境界とその外側の関係を巧みにかき乱すことである。こうしてこの作品は、ファン文化分析の最も基本的な問いのいくつかを、潜在的に新しい方法で投げかけている。消費主義の中に自律のゾーンを作ることは可能なのか?資本主義を違った形で実践することで、内部から脱出することはできるのか。あるいは、自律性という感覚は、まさにこの本の中で最も古いトリックであり、単に商品に対するより積極的な奴隷化形態を作り出しているだけなのだろうか。アニメのイメージに服従することが、いかに自虐的に自覚していたとしても、自律した自己の構築を可能にするのだろうか。これは自律の幻想にすぎず、自由の究極的な再定義ではないのか。

 これらの問題は、言うまでもなく、アドルノがファン文化分析に伝えたものだ。 例えば、1938年時点でアドルノが音楽のフェティシズムについて言及する際、その「対概念(counterpart)」は聴取の退行だ。 そして彼は次のように指摘する。

もしも現代の人々がもはや自分自身に属さなくなったのであれば、それは彼らがもはや「影響を受ける」こともできなくなったことを意味する。生産と消費の対立する点は、いかなる時点においても密接に調整されているが、互いに独立して依存し合っているわけではない。 その仲介自体も、いかなる場合においても理論的な推論から逃れることはできない(注26)。

注26 Theodor Adorno, “On the fetish character in music and the regression of listening,” in J. M. Bernstein, ed., The Culture Industry: Selected Essays on Mass Culture (London: Routledge, 1991), 40.〔テオドール・アドルノ「音楽における物神的性格と聴取の退化」、『不協和音 管理社会における音楽』三光長治・高辻知義訳、平凡社ライブラリー、1998〕

アドルノが提示する聴衆のイメージとは、生産と消費の密接な連携に気づいているかもしれないが、それでもなお、自分自身に属しているわけではない聴衆だ。ファン知識は豊富で、膨大ですらであっても、アドルノにとって退行的で啓蒙されていないままである。アドルノの文化産業への視点は、いわゆるハイ・モダニズムとの関わりから生まれる。しかし、ハイ・モダニズムでさえ、アドルノにとって真に自律的な知識の領域を提供しない。それは、大衆文化と同様に、物象化されているからだ。したがって、大衆文化とハイ・モダニズムの関係は、ハイ・カルチャーと大衆文化のどちらを選ぶかという単純な倫理的選択を許さない。最終的に、その関係は弁証法的運動を許さず、ただ退廃的な矛盾のみを許す——同時に前進と後退を、同時にアヴァンギャルドと退行性を動く世界であり、活動と文化の運動に満ちた世界でありながら、実質的には停止状態(standstill)にる。これがオタク運動がやっていることなのだろうか。

 ファン文化分析は、アドルノのハイモダニズム(そのエリート主義)への依拠と、大衆文化の受容者の受動性に関する彼の認識に批判を向けてきた。これに対し、ファン文化分析は、アドルノの大衆文化に対する偏見を排除し、ファンダムを真剣に追跡し、ファンの活動を調査することを提案する。この転換の鍵となるのは、オタクと呼ばれる「カルトファン」のようなファンだ。例えばマット・ヒルズは、ファンダムとカルト・ファンダムを区別しています。すなわち、ファンダムとカルト・ファンダムは重なるように見えるが、カルト・ファンダムは一般のファンとは少なくとも部分的に異なるアイデンティティを暗示する——つまり、特定のテレビシリーズを好むすべての視聴者がそのカルト・ファンになるわけではないのだ。ヒルズが指摘するには、ファンとカルトファンのこの区別が「関連するのは、対象のファンダムの強度、社会的組織、または記号的/物質的な生産性ではなく、その持続期間、特に元のメディアで『新しい』または公式の素材が欠如している場合」である(注27)。つまり、カルトファンダムは公式な生産の欠如にもかかわらず持続する。カルトファンが自律性を示すのは、その活動が業界(industry)に追随するのではなく、業界とは独立して継続するからだ。ヒルズの研究は、ファン文化分析における転換点を示しており、カルトファンが文化の生産者となり、公式な生産——すなわち文化産業——からある程度自律するようになる過程に注目する。

注27 Matt Hills, Fan Cultures (London: Routledge, 2002), x. ヒルズは強度を除外し、最も重要な要素として 「持続時間」を選んでいるが、彼の持続時間は、多少ベルクソン的なひねりが加えられているとすれば、強度の重要性についての私の感覚には遠く及ばない。

 カルト的なファン(オタク)を題材にしたカルト的なファン映画として、『おたくのビデオ』は消費主義における自律性の問題を新たな視点から提起する。当然ながら、オタクを題材にしたカルト的なファン映画として、それは自己言及的な固定化に陥るリスクを孕みつつも、それが主張するのは、消費者を文化の共同生産者へと変革するということだ。しかし『おたくのビデオ』は、オタク活動の強度(および持続時間)を新たな次元へと高める。アドルノの懸念は依然として有効だが、オタク文化の新たな次元や激しい力は、単なる後退や後退的な共同生産について語ることを困難にしている。むしろ、『おたくのビデオ』が示そうとしているように、オタク活動はファンダムの問題を、労働力に似た生産性へとシフトさせるのだ。これが示唆するのは、ファンが構成的権力と何らかの関係にあるということだ。労働力へのこうした強調を、ポストフォード主義的またはポストモダン資本主義の症状として読むべきではないという意味ではない。しかし、批評家は、いわゆる上部構造(知識生産やコミュニケーション)が、歴史的変革を駆動する上で補足的(supplemental)または二次的な役割を果たすものではない可能性を考慮しなければならない。  

 『おたくのビデオ』は、知識の規律化とコミュニケーションの合理化に焦点を当てる。  そのオタク学は、「遊びの規律」として、規律的な知識を自己修養と自己認識の実践へと変革することを目指す。「非公式な労働」や「遊びの労働」として、特にコミュニケーション労働の合理化に挑戦しようとしているのだ。 このような戯れ(ゲーム)は、構成的権力との関係を必要とする。これが、「ガイナックス言説」におけるオタク学が問題に直面する点だ――おそらく構成的権力という概念自体も同様に〔同じ問題に直面するだろう〕。

 オタク学は、労働の拒否と規律社会への抵抗の戦略を暗示している。すなわち、オタクたちは企業の「サラリーマン」や知識人ではない。 これらの形象にたいするオタクの関係は、時に否定的なものとなり、悲観的または懐古的な否定に満ちている。オタクは、義務感はあるものの不本意ながら、どちらの立場にも容易に陥る可能性がある。結局のところ、オタクも社会的に位置付けられており、『おたくのビデオ』は、社会的に迷子になったり堕落したオタクの不安定で否定的なイメージを提示するのだ。このような否定的なイメージやモデルに悩まされているかのように、オタク学は自己差異化の積極的な力、違いを主張する方法を模索している。久保と田中が成功したのは、彼らがアニメへの若き情熱を抱いていたからだ――これは年齢や場所を問わず、誰にでも起こり得る。彼らの勝利は、差異のポジティブなイメージの一つを提供する。しかし、モキュメンタリーとアニメーションのセグメントの鮮明な視覚的違いが示すように、これらの二つの自己差別化は弁証法的緊張関係にある——一方を克服することはできず、一方なしでは機能しない。

 『おたくのビデオ』における弁証法的緊張は、自己愛とフェティシズムの問題に凝縮される。遊びを重視し、規律的な知識を軽視するその姿勢は自己修養を可能にするが、この自己認識の方法は、「自己との遊び」(文字通り一部のシーンでは自慰行為として表現される)の形をとる。『おたくのビデオ』は、自己との遊びの興奮と恥のあいだを漂って自己と戯れる〔プレイする〕——あるいはその戯れはイメージとの性行為なのか。いずれにせよ、自慰行為はオタクの自己差異化における否定的な側面と肯定的な側面の弁証法的緊張を凝縮している。性行為が前面に押し出されるのは不思議ではない。結局のところ、性行為も社会的に労働と遊びの間にあるものであり、社会再生産と自己生産の場所として機能するにちがいないのだから。  『おたくのビデオ』の問題は、女性との関係にある。モデル化と少女フィギュアの収集に付与される興奮と情熱は、現実の女性からの自律感覚、すなわち彼女たちとの関係に付随する社会的期待(結婚と家族を支えるための経済的支援を提供する仕事)からの解放感に由来する。『おたくのビデオ』は、オタクが現実の女性と交流できないことへの恥と失敗感を暗示する——社会的失敗への恥の感覚を。この興奮と恥の弁証法的緊張、自己肯定と自己否定の緊張の中で、現実の女性は男性性の(不)可能性の条件を体現するようになる。最終的に、オタク学は男性的な自律した力(女性から自律した力)に依拠することで、構成的権力(と拒否の戦略)を想像するだけのように見える。しかし、女性のイメージは、男性的な自律の幻想にとって不可欠な要素であり続ける。

 要するに、オタクは自分自身と遊ぶ(playing with himself)ことで、現実の女性から距離を置くことで、特定の形態の規律化と合理化——特に企業人像と核家族像——を拒否しているようだ。したがって、オタクは新たな種類の男性を目指している。だが、オタクの女性像が企業人にとって受け入れ可能なもの(歴史的に企業文化から派生した可能性もある)である限り、オタクは既成の社会性的な形成物(ホモソーシャルな職場、規範的な異性愛、性産業など)から根本的な断絶を提示するわけではない。むしろ、オタク学は既成のジェンダーロールを歪んだ形で再構築する。つまり、オタクの否定的な自己差異化と肯定的な自己差異化に内在する弁証法的緊張は、停滞的な収縮をもたらすものではない。それは動きをもたらす。倒錯(perversion)である動きをだ。  

 倒錯は、退行や進行、または転覆(subversion)や逆転(inversion)との違いにおいて、特に評価が難しい運動の形態だ。当然、運動として、それは自律の領域を生み出す。だがこの自律領域を追跡し、境界を定めるのは明確ではないのだ。たしかに、日本の社会の硬直し権威主義的な構造が自己表現を阻害することをもって、このオタク的倒錯の原因であるとみなし、純粋に日本の現象とみなす人々に対して、私はオタク文化が純粋に日本のものではないことを付け加えなければならない。アニメの普及と、「ヘンタイアニメ(hentai anime)」(または倒錯したアニメーション)が現在のインターネットで流行していることは、ナショナルな運動ではなく、トランスナショナルな運動であり、その起源を孤立した自己同一的な日本だけに帰属させられないことを示す。オタクの倒錯は、トランスナショナルな日本から生じているのだ。つまり、内的かつ外的に世界と関係するネーションから生じている。このオタク運動の倒錯について考えるにあたり、私は現在、「ガイナックス言説」がフェティシズムをどのように変容させようとしているか、すなわち、男性と女性の関係の問題から、男性がメディアとどのように関わるかという問題へと転換させようとしている点に焦点を当てる。要するに、「ガイナックス言説」は、カルト的なファンダムに内在する弁証法的緊張を克服する希望を抱きながら、前進し続ける試みの中で、新たな幻想の構造を構築しているのだ。 重要なのは、倒錯をメディアの拡散運動へと位置ずらしさせることにある

メディア・フェティシズム:倒錯から増殖へ

 『おたくのビデオ』は、オタクが性的に未熟な思春期の少年のような状態に陥っているように見えることがある。オタク男性がセクシーな女性の画像に熱中する傾向は、少年や若い男性が女性に興味を持ちながらも、彼女たちを口説く自信や手段がない思春期の段階と見なされている。やがて、これらの若い男性は、女性のイメージから現実の女性へと進むべきだとされている。または、彼らが女性のアニメ画像に興味を持ち続ける場合でも、これらはデート、結婚、家族といった社会的性的な進展を妨げるべきではない。しかし、オタクは社会的性的な発達を進める意欲がないか、あるいはその能力がない。彼は移行期に停滞し、女性の画像に執着するが、実際の女性には無関心である。

 発達停止のパラダイムは、「ガイナックス言説」に限定されたものではない。このパラダイムは、他のオタク学の形態にも広く浸透している。特に重要なのは、男性のポルノグラフィーへの興味の思春期段階を、正常で、場合によっては健康的なものとして提示することだ。『ちょびっツ』は、『おたくのビデオ』とはほぼ正反対の視点でオタク的な行動を描いたシリーズであり、女性四人組のチームであるCLAMPが制作したこのきわめて人気のある漫画連載なのだが、本作は後にアニメシリーズにもアダプトされて同等の人気を博した。 『ちょびっツ』は、若き男性主人公のポルノへの嗜好を極めて正常なものとして描いている。彼がポルノ雑誌を持っているところを捕まえた際、恥ずかしがる兆候を見せるものの、彼の女性知人たちは彼のポルノコレクションに対して驚いたり嫌悪感(distaste)を示したりしない。実際、彼が耐え難くかわいいヒューマノイドコンピュータ(当然女性だ)に恋をした際、誰もが彼が彼女/それとの性行為をしていると仮定する——まるでこれが普通の男性がするべきことであるかのように。しかし、物語の条件上、彼は彼女の記憶とアイデンティティを消去せずに彼女と性行為を行うことはできない。結局、彼はこのプラトニックな状況を受け入れる——彼女のアイデンティティへの尊敬が、彼女との性行為への欲望に勝る。彼は彼女を変えるよりも、性行為を諦めることを選ぶのだ。しかし、そのポルノコレクションについて疑問が残る。ポルノは彼の性的な欲望の出口として機能し続けるのだろうか。ポルノグラフィーが、彼の理想の愛を実現するための自由を与えるものなのか。『ちょびっツ』は、オタクのようなポルノグラフィーへの傾倒を、理想の愛、プラトニックなロマンスの基盤として想像している。皮肉なことに、ポルノグラフィーは、女性が放棄やアイデンティティの喪失にさらされる可能性のある伝統的な社会性的な発達を阻止する役割を果たす。ポルノグラフィーは、〔思春期の若者の〕幼な恋(puppy love)を挫折させない。

 「ガイナックス言説」は『ちょびっツ』のそれとは似ていない。オタクが女性像や個人用のフィギュア、ガレージキットに囚われた性的移行状態から抜け出せない問題に対し、ロマンティックな解決策を見出そうとはしない。彼の情熱や執着は、同時に至福と呪い(bliss and curse)である——『おたくのビデオ』におけるその二重の動きのように、自己肯定的な勝利と自己卑下的なユーモアが共存する。上記で示したように、これは静的な矛盾ではなく、動的な緊張であり、最も適切に「倒錯」と表現できるものである。『ちょびっツ』との対比が示すように、「ガイナックス言説」の特徴の一つは、解決や和解のない動きとして倒錯を用いる点だ。  

 庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』(ガイナックスシリーズはアニメの頂点と見なされることが多い)は、『おたくのビデオ』にみられる二重の動きを再構築している。一方、エヴァンゲリオンには古典的なメカ物語の要素が存在する――若者が特殊なサイコキネシス能力と遺伝的特徴を持ち、地球を侵略者から救う唯一の希望となる巨大ロボットを操縦できるという設定だ。一般的な物語の定型は、彼の最終的な勝利とこのポストアポカリプス世界の救済を予期させる。他方で、シリーズは戦闘と勝利の定番を崩し、主人公と周囲の人物との関係——特に父親と一連の若い女性たちとの関係——に焦点を当てる。それぞれが彼に異なる種類のコミットメントを要求し、一種のオタクの肖像を描き出す。最終エピソードでは、最終決戦が迫る中、シリーズは勝利の結末を提供せず、主人公の決断やコミットメントの不能さに焦点を当て、アニメーションの「零度」のようなスタイル(アニメーション化された白黒スケッチ)へと移行する。シリーズの熱心なファンは、この結末に大規模な反発を示した——これは、庵野が『エヴァンゲリオン』をオタク文化の批判として考えていたため、当然のことだった。最終的に、怒ったファンの抗議に応えて、庵野とガイナックスは『エヴァンゲリオン』に慣習的な結末を制作し、これによりシリーズは事実上終了した(JAJ注30)。

JAJ注30 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版:Air/まごころを君に』(1997年)。

 (庵野秀明の過去のシリーズ『ふしぎの海のナディア』と同様に)『エヴァンゲリオン』は、終わりなきシリーズを構築するアイデアに基づく。『エヴァンゲリオン』は、この「終わりなき」という概念を、ある種のショックとして提示する。ファンがシリーズに没頭し、その複雑さと謎を追いかけるようになると、シリーズは彼らを切り捨てる。これは、ファンに対する残酷でサディスティックな扱いと言える。この残酷さがファンに啓示の衝撃をもたらすかどうかはさておき、この点が倒錯(perversion)としての運動について何を示しているのか、再び考察したい。

 『エヴァンゲリオン』と『おたくのビデオ』は、オタクのコミット不能性の問題を浮き彫りにする。彼らが提供するのは、特に社会性や性的な発達において、通過段階に停滞したカルト的なファンのイメージだ。『エヴァンゲリオン』の主人公は、父親と和解できず、欲望を直接表現できず、または成熟した行動を取ることができない。この点で、ガイナックス的オタク学は反復強迫を想起させる。オタクのコミット不能性には、悲哀に満ちた狂気的な質がある——まるで原初的なトラウマと向き合えないまま、それを再現しているかのように。例えばエヴァンゲリオンでは、主人公のトラウマは母親の早期の死と、旧世界の早期の死が同時に存在する。彼は、自分の死よりもこのポストアポカリプス世界の死を恐れているのか、それとも逆なのか、決めることができない。彼は自分がすでに死んでいると感じる。そのため、彼は原初的なトラウマを強迫的に繰り返し、それを置き換えつつも、決して向き合おうとしない。物語の構造とキャラクター描写は、メランコリックな反復強迫とよく一致するが、このシリーズはそれだけではない。では、『エヴァンゲリオン』シリーズは、このオタクのような主人公をどのように描いているのか。彼は強迫的に繰り返す行為を、さらに強迫的に繰り返すのか。これが、シリーズが結末で完結を拒否する理由なのか。

 エヴァンゲリオンシリーズは、その主人公がメランコリアと反復強迫の観点から解釈される可能性はあるものの、その不幸な主人公から距離を置いている。つまり、主人公の否定的な衝動が作品の全体的なトーンや姿勢を決定するわけではない。また、戦闘と勝利の肯定的な衝動も同様だ。私が提案したのは、倒錯がこれらの否定的な衝動と肯定的な衝動の緊張から生じる運動であるということだ。しかし、否定的な衝動と肯定的な衝動の間で揺れ動く中でも、倒錯は肯定的な衝動を維持しようとする。それは『ちょびっツ』のような肯定的な和解を生むことではない。むしろ否定的な衝動と肯定的な衝動以前に存在する肯定的な何かを探求する試みを倒錯はおこなう。これが『エヴァンゲリオン』の最終シーンにおける「零度のアニメーション」の仕組みである。様式論的には(stylistically)、アニメーションの組織化前のモメントへの運動、スケッチが完全に整理される前のモメントへの運動、色が丁寧に塗られる前のモメントへの運動、そして人物の動作がストーリーボードの動作に組み込まれる前のモメントへの運動だ。行動がまだ順序立てて凝縮されていない、変調する線の多形的な領域(A polymorphic field of modulating lines)。これが、『エヴァンゲリオン』が行動と反応、肯定と否定以前に存在する倒錯のイメージなのだ。

 倒錯は、当然ながら、ラカン派の精神分析においても多様な解釈が存在する(JAJ注31)。この文脈では、倒錯は社会的慣習に従った性的な組織化に先立つ段階を示すと述べるに留めよう。倒錯は、特定の対象への執着がまだ確立されていない段階であるため、しばしば多形性倒錯と称される。愛着(attachment)は漂流し続ける。十分な、つまり相対的に適切な代償(substitution)はまだ存在しない――その代替が漂流する愛着の系列を遡及的に安定させるため介入するのだが。また、完全な、相対的に安定させる代替を約束しながらも決して提供しない対象への反復的で強迫的な固着(fixation)も存在しない。 倒錯は反復強迫よりも先行する。それはむしろ「萌え」に似ている。

JAJ注31 See Molly Anne Rothenberg, Dennis Foster, and Slavoj Žižek, eds., Perversion and the Social Relation (Durham, NC, 2003).

 アニメファンダムとよく関連付けられる反応として、「萌え」が示唆するのは、キャラクターの姿勢や態度、表情——つまりキャラクターの見た目や話し方——に対する好意や魅力を指し、かわいいとエロティックな要素である。「萌え」という言葉を掻き立てていることに、キャラクターに対する避けがたい好意や 魅惑が示唆される(JAJ注32)。〔萌えについては〕しばしば「芽」や「つぼみ」を意味する文字が注釈に用いられ、成長や増殖の暗示がある。時には、燃える、輝く、または炎のような意味の「萌え」と結びつけられ、激しい情熱を表現する。要するに、萌えはイメージに対する情動的な反応を指す。これはポルノグラフィーと関連付けられやすい情動的な反応だが、ポルノグラフィーは既に組織化された萌えの一種である。萌えは、イメージに対する興奮がさらに多くのイメージへと導くような感情として捉えられる。この前進的な動きは、例えば反復強迫として組織化されるかもしれない。特定の細部に執着し、自動的にそれらを繰り返すようになるかもしれない——例えば、オタクの傾向として、特定の種類のスカート、胸、髪、武器などを持つ女性の画像を繰り返し見るような場合だ。このような反復を駆動する力は、新しい画像への注意と興味を可能にするイメージへの情熱(élan)であり、つまり萌えである。萌えは、性的な反復の組織化以前に生じる知覚の停止の瞬間なのだ。倒錯と同様、萌えは性的な構成的権力を喚起し、多形的な増殖の形態を生み出す。  

JAJ注32 萌えの良い入門として、森川『萌える都市アキハバラ』27–32頁を参照。

 倒錯は、「ガイナックス言説」がオタクのコミット不能性、発達停止、または終わりなき移行期に対して取る立場を最も適切に特徴付ける。ガイナックス的オタクは完全で安定した代償(substitution)に到達しない。つまり到達するのは、現実の女性ではなくあくまで女性のイメージだ。しかし、オタクの欲望の悲哀と狂気的な側面を一部示しつつも、「ガイナックス言説」は、その構成的権力を「倒錯」に、肯定の物語的組織化(成功した自己実現の物語)や否定の心理的組織化(発達停止や固定化された思春期の肖像)以前に存在する肯定的な力として位置付けようとする。要するに、ガイナックスの英雄的または叙事的なアニメ物語への問いかけは、その前言語的(prediscursive)な潜在力——いわゆる「萌え」——を定位しようとする試みである。しかし、オタクの欲望のメランコリックで狂気的な側面を一部示しつつも、「ガイナックス言説」は、その構成的権力を位置付けようとする——倒錯において、肯定の物語的組織化(成功した自己実現者の物語)や否定の心理的組織化(停滞した若年期の肖像)以前に存在する肯定的な力において。要するに、ガイナックスの英雄的または叙事的なアニメ物語への問いかけは、その前言語的な潜在力——いわゆる「萌え」——を定位しようとする試みである。したがって、「ガイナックス言説」がオタクのファンダムに対して批判的な視点をときどき示すとしても、アニメのイメージを完全に生産的次元で捉えている。アニメの形象を変調する線(modulating lines)は、肯定的な力から派生する。その結果、「ガイナックス言説」は、アニメの女性——フェティシズム——を、その生産性という観点から完全に捉える。  

 別の言い方をすれば、「ガイナックス言説」は、オタクのファンダムのポジティブな側面を真の傾向として、そしてその傾向そのものとして位置付ける。そのオタク学は、オタク自身が無自覚である可能性のある構成的権力を捉える。(オタク学がオタクを軽蔑したり、少なくとも彼らに対して残酷であったりするかもしれないことは、『エヴァンゲリオン』の例を見れば容易に理解できる。) この議論が抽象的になりすぎないように、倒錯/拡散(proliferation)と反復/固定化の差異を明確にしよう。その差異は、「リアルなものとの不可能なまたは失敗した関係」VS「リアルなものとの創造的・生成的な関係」にある。

 オタクを「かわいい女の子のアニメ画像に夢中になる男」と捉えるなら、そのイメージは、その過剰なまでの力強さを通じて、不可能であり決して手に入らない何かを意味していると解釈されるかもしれない。この場合、ファンがイメージに対して熱烈に献身するのは、名付けられず、名付けることのできない欠如の強制的な反復に近づいているように見える。オタクの活動は、欠如を埋めようとする置換(displacement)の運動であり、欠如を支配し否定しようとする努力を含んでいる。すなわち、「実際にはこのような女性を手に入れることはできないが、別の方法でまさにそのような女性を手に入れることができる——そして、私が手に入れるものが実際に女性でなくても、それを完全に形作り支配することができるため、私の力の感覚がより強まる」。このような解釈では、トラウマの源は、男性が女性と成功裡にインタラクト不能であることにある。ラカン派の用語で言えば、この局所的な失敗は、人間の不完全さそのもの、すなわち性関係において最初に現れ、補償される原初的な欠如に起源を持つと言える。

 ガイナックス的オタク学は、オタクがアニメ画像との関係において抱える憂鬱なニュアンスに触れつつも、その運動の基盤を欠如や不在に置くことはない。むしろ、その運動の基盤は可能性に置かれる。しかし、そうするためには、アニメ画像の女性と現実の女性との関係を排除する必要がある。「ガイナックス言説」は、アニメ画像が現実の女性へと向かう世界への出口となることを認めない。それはこう主張する。「画像はより多くの画像へとつながる」のだと。もちろん、これはガイナックスがアニメの世界と性産業の重なり合い——現実の女性が搾取される領域——を否定しているものと解釈できる。日本にはアニメの性的な動画の大量生産があるだけでなく、性的に露骨またはしばしば性的に暴力的なファンジン(同人誌)の重要なアマチュア制作も存在する。例えば、エティエンヌ・バラールはオタクの性的な幻想が女性への暴力を含む点について懸念を表明し、その中で彼は、少年が自由になりたいと願う不可欠ながらも最終的に去勢的な存在である母親への無意識の憎悪を指摘している(JAJ注33) 。同様に、斎藤環は、アニメが男性が女性に対する権力を象徴するペニスの幻想を構造化している点に注意を喚起する(JAJ注34)。女性像を支配する関心が、現実の女性への暴力や、女性を真に搾取する性産業の支援を助長しない理由はあるのだろうか。イメージが実際の社会実践と全く関連しない理由はあるのだろうか。

JAJ注33 See Étienne Barral, Otaku: Les enfants du virtuel (Paris, 1999), 156.
JAJ注34 斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(東京、太田出版、2000)。

 「ガイナックス言説」は、そのような質問を回避する。それは方向を変える(swerves)のだ。ガイナックスの作品と議論において、このような問題への意識は、『おたくのビデオ』のモックメンタリー・セグメントにおいて初めて明確に現れる。しかし、その文脈においても、アニメのイメージとオタクの世界が現実——現実の世界、実際の女性、そして現実そのもの——から自律している点に重点が置かれている。再び、これはガイナックスがアニメの社会的影響を否定しているものと読むこともできる。しかし、たとえ否定(disavowal)と解釈しても、それは単純な否定ではない——否定は決して単純ではなく、現実との関係もまた単純ではないからだ。したがって、「ガイナックス言説」がアニメの差異をどのように提案しているかを、単に否定するのではなく、探求することが不可欠である。ここで、今敏の『パーフェクト・ブルー』(1997)における熱狂的なファンの批判は、有用な対照を提供する。

 『パーフェクト・ブルー』では、狂信的なファンがアイドル歌手を追跡し、彼女が(アイドル歌手からテレビ女優へと)自らのイメージの変容を決断したことに怒りを抱えている。そのファンが恐れるのは、アイドル歌手のイメージの背後にいる現実の女性が変身(変容)することによって、アイドル歌手を失うことだ。そのため、ファンは女性を取り巻く人々を殺害し、彼女を脅迫することで、アイドルを永遠不変のイメージとして維持させようとする。つまり、『パーフェクト・ブルー』において、ファンは現実との関係を持っている。ファンはイメージの背後にいる現実の女性に対して行動を起こし、イメージと女性との間に乖離が生じないよう保証しようとする。ファンにとって、イメージは現実よりも優先され、現実の女性はイメージに強制的に従わせられるべきものとなる。『パーフェクト・ブルー』が提示するカルト的ファンの批評があるとするならば、それは、彼らが現実をイメージよりも優先できない点に基礎をおいている。このような批評は、容易に悪影響を及ぼすおそれがある。 なぜなら、すべては視聴者を彼らが観ているイメージからショックで覚醒させる能力に依存しているからだ。『パーフェクト・ブルー』の衝撃的な展開は、狂ったファンが男性オタクではなく、アイドル歌手のエージェントである女性マネージャーだと判明することにある。この展開には悪意と矛盾が満ちている。男性ファンが女性アイドルとの関係において搾取的かつ暴力的な性質があることに焦点を当てた上で、結局は『パーフェクト・ブルー』はアブジェクトな形象、つまりスケープゴートを提示するということだからだ。太っていて不細工な働く女性が狂気の殺人者として現れる。一方、アイドル歌手はテレビスターへの変身(変容)に成功する。明らかに、『パーフェクト・ブルー』はアイドルとアイドル崇拝を完全に否定しようとしていない。単に、ファンダムの暴力を卑劣な人物に投影することで、その暴力を抑え込もうとしているのだ(JAJ注35)。

注35 今敏のその後の二作はこれを明確に示している。『千年女優』(2001年)では、二人のファンが女優への愛を追求する様子を描き、彼女の映画と彼らの愛は歴史的変化を超越する。 『東京ゴッドファーザーズ』(2003年)では、母性が男性の身体や社会関係に漂い、必ずしも女性にとどまらない様子を描く。しかし、母性の身体そのものに対する一定の嫌悪感(アブジェクション)が生じる。

 「ガイナックス言説」は、非常に異なる方法で機能する。それは現実の女性との対応関係を排除し、イメージの中に留まること(remain within the image)を試みる。イメージが現実を構築する潜在力(potency)を強調するのだ。典型的なシナリオでは、オタクは特定の女性イメージに対して「萌え」を感じる。マンガであればアニメシリーズを要求し、マンガとアニメが既に存在する場合、フィギュアを要求する。また、フィギュアから始まった場合、アニメシリーズを望み、既製のフィギュアが登場すると、自分だけのモデルを作るためのガレージキットを要求する。マンガシリーズが終了すると、追加のエピソードを書き始める。キャラクターが望ましくない方向に変化すると、別のストーリーを執筆し、シリーズのプロモーションが必要な場合は、それを宣伝する。フィギュアが自分の希望するほど肌を露出していない場合、アマチュアのポルノ版を描き、販売する。こうしたシナリオでは、カルト的なファンは、さまざまなメディアを横断するシリーズの共同制作者(coproducer)、あるいは協力者(cooperator)となるのだ。このように、オタクたちの協力により、女性のイメージは世界、現実を生み出していく。女性のイメージは世界へとつながっていくことはない――オタクがオタクであり続ける限り、つまり、非常に制御された形式的な方法以外では他人との接触を避け、家から外出しない生き物である限りは。

 結局のところ、こうしたシナリオでは、ファンの目標は、そのイメージの潜在力を実現すること、そして同時に、自分の潜在力を実現することである。これは、彼をガレージキットからアニメスタジオの設立、または人間型コンピュータや、ある愛着のあるイメージに似た女性型ロボットの構築へと導くかもしれない。しかし、「ガイナックス言説」においては、女性型ロボットでさえ、イメージの変容の連鎖を安定させるための完全なまたは適切な代償=代替物(substitution )としては機能しない(『ちょびっツ』のように)。「ガイナックス言説」は、そのようなハッピーエンドや他のいかなる解決策も想定していない。それが目指すのは、イメージがメディアを超えて変容する可能性を追跡し、さらに発展させることを目的とし、複数のメディア世界を生み出すことなのだ。これはアニメのユートピア的思考のブランドである。すなわち、形象を内在的に変調させる力(inherent modulating power of figures)がすべてを形作るのだ。

 要するに「ガイナックス言説」は、オタク活動のメランコリー的な可能性ではなく倒錯的な可能性を自ら取り込むことで、性的な構成的権力(the constituent power of sexuality)——アニメのイメージや「萌え」に内在する純粋な情動の肯定的モメント——を定位しようとする。この力は、多形的倒錯をマルチメディア増殖の運動へと変容させる。「ガイナックス言説」は、アニメのイメージと広義の世界(つまり実際の女性)との関係を扱わない。なぜなら、それができないからだ。「ガイナックス言説」は、オタクが社会現実から撤退することを主張しなければならない。さもなくば、オタクは単にこの世界で活動して(operating)おり、しかもひどいやり方で活動していることになるからだ。オタクの離脱がなければ、〔オタク活動は〕日本の社会現実や文化産業と、そしてその中において違いはない。したがって、「ガイナックス言説」はオタクの自律性を主張しなければならないが、その自律性の実現は、オタクがどのように現実から撤退するかに大きく依存する。 「ガイナックス言説」がオタクの傾向を肯定的に捉え(そして自らの傾向として位置付ける)場合、オタクはメディアの変容の空間のなかへの撤退として描かれ、新しい技術と新しいメディアへの情熱に重点が置かれる。また、萌えは女性よりもメディアに向けられていると主張しなければならない。実際、アニメのイメージ(およびオタク)が実際の女性から自律していることが、「ガイナックス言説」の要を形成しているのだ。

 この姿勢には明らかな問題がいくつかある。たとえばその自律性の主張は、予測可能な形でのホモソーシャルな絆、女性に対する男性の権力、女性の創造性の拒否に依存している(JAJ注36)。構成的権力は男性的潜在力と混同される。この点で、問題は単に「ガイナックス言説」が、アニメの女性像が実際の女性の搾取と関連する方法を否定することだけではない。より根本的には、アニメに関する技術的専門知識にもかかわらず、「ガイナックス言説」は物質性を考えることに問題を抱えている。

JAJ注36  例えば、女性をクリエイターとして排除する傾向がある。この議論において、女性作家やアーティストの重要性が認められる場合でも、主にマンガの制作者としての立場であり、さらに女性のマンガ作品がアニメの変容のための素材を提供しているかのように扱われる。アニメでは、男性ファンやアニメ制作者の働きにより、彼女たちのマンガにおける可愛らしく力強い少女のイメージが、引き付け役やメディアの入り口として機能する。要するに、注目されるのは、女性イメージの(あるいは女性によるイメージ)を男性がなぞって描く=改定すること(redrawing)であり、女性自身が女性イメージ(あるいは非慣習的なかたちで少年や男性のイメージ)をなぞって描く=改定することではない。このなぞり描きが再ジェンダー化を伴うのを感じさせるが、その成果は新しい種類の男性であり、新しいジェンダーではない。

 アニメのイメージを、密接な相互接続の分散的=分配的な領域として再考しよう。これがまさに、アニメのイメージが複数のメディア変換に適している理由である——そのもろもろのレイヤーは、創発する自己組織化パターンに開かれたシステムを形成する。理論上、密接にレイヤー化された非階層的なイメージであれば、いずれでも可能だ。なぜガイナックス的オタク学は、女性のイメージをメディアの変容に対する開放性の場として位置付けるのだろうか。なぜそのイメージにジェンダーの痕跡が残る必要があるのだろうか。女性のイメージには、より自然に開放的な性質があるのだろうか。その答えは、古い形而上学的な偏見(バイアス)にある。「ガイナックス言説」は動的物質の理論(自己組織化システム)へと傾倒するため、女性を物質に近しい存在と捉える。実際、典型的なアニメの女性——例えば『おたくのビデオ』のミスティ・メイ——が物語るのは、女性の力ではなく物質の潜在力についてなのだ。 典型的な女性像は、かわいらしさと過剰な女性的な特徴によって女性的な潜在力を連想させるが、通常、女性身体に特有とされる潜在的な可能性は一切備えていない。要するに、それは母性的な身体から極めて遠い存在である。例えば、サイボーグやロボットのアニメの特筆すべき特徴の一つは、女性の出産機能を女性身体以外のほぼすべてに置き換えている点だ。これは、何か奇妙なことが起こっている兆候である。女性のイメージは、生殖や出産の機能を暗示しなくなった範囲でしか力強さを発揮しないかのようだ。これは、出産と生殖が男性に帰属させられるか、男性によって奪われる(視点によっては)ことを意味する。母性の身体は、創造性や生成性(generativity)の主張をすべて失い、もはや起源として現れないほど隔てられる。この女性の無力化の裏には、古い形而上学的なバイアスがある。つまり、女性=受動的な物質(質料);男性=能動的な形式(形相)である。

 アニメのイメージの力に焦点を当てる「ガイナックス言説」は、動的物質の理論へと向かっているように見える。その理論は、上記の形而上学的なバイアスを大きく揺るがすものとなるだろう(JAJ注37)。その理論は、女性のイメージが自己組織化システムにおける吸引子(アトラクタ)として機能することを示唆している。これが、女性イメージがメディアを越えて増殖と変容の運動を可能にする理由である。理論上、女性=動的アトラクタは、女性身体を受動的物質と結びつける慣習を複雑化する。 しかし同時に、女性のアトラクタは、実際の女性の物質性から隔たらせるかぎりにおいてのみ、その物質的動力を得る。この点において、アニメのキュートな女性の力は、「ガイナックス言説」におけるアポリアを構成する。女性の表象(semblance)は重要でありながら、同時に重要ではない〔というアポリアだ〕。  

JAJ注37 これは、ジュディス・バトラーとエリザベス・グロスの著作において力強く提起されている問題である。バトラーのBodies that Matter: On the Discursive Limits of "Sex", (Routledge, 1993).〔邦訳『問題=物質(マター)となる身体 「セックス」の言説的境界について』以文社〕を参照。また、エリザベス・グロスの「フェミニズムと理性の危機」は、Space, Time, and Perversion: Essays on the Politics of Bodies (Routledge, 1995)に収録されている。フェン・チェアは ‘‘Mattering,’’ Diacritics 26, no.1 (1996): 108–39.において優れた分析を展開している。

 しかし、これは運動を生み出し、変化をもたらすアポリアである。  女性イメージがダイナミックに機能する(operate)ためには、セクシュアリティの従来の組織化が何かしらの変化を遂げなければならない。性的発達は停止され、新たな結びつきに開かれる必要がある。明らかに、アニメのメディアの変質(倒錯)への挑戦は現在、強力なファンタジーであり、「ガイナックス言説」や他のアニメを超えて重要な変異と再解釈に開かれている。しかしながら、資本主義の問題は依然として残る。この倒錯/増殖の運動は、まさに資本の運動そのものではないか。資本は、古い形態を解体し新しい形態を構成するために、ラディカルな内在性や構成的権力を位置付けるのではないか。資本内部における資本とは異なった自律的な運動が、これによってどの程度可能になるのか。性的発達を拒否することから、性的政治や労働の政治へと至ることは可能なのか。

 「ガイナックス言説」の興味深い点は、新たなグローバルなメディア形成の文脈において、ラディカルな内在性と構成的権力の問題に焦点を当てる点にある。これは、アニメーションの変調する形態が、異なるメディア間の接続を生産する上で演じる重要な役割がどのようなものであり、アニメーションの変調する形態が、新たな幻想の構造との関係において果たす役割がどのようなものなのかを考える道を開く。このように、「ガイナックス言説」は、グローバルメディアの領域における内在性の政治学の理論化を可能にするかもしれない。しかし、その倒錯/増殖への挑戦の物質的限界と理論的帰結を思考する意欲や能力に欠けるように見えるのと同様、「ガイナックス言説」は、とりわけオタクとアニメのトランスナショナルな動きに取り組むのを嫌がり続け、日本的なアイデンティティ以外の用語で語ろうとしないのだ。

コーダ:トランスナショナルな運動

 結論として、「ガイナックス言説」のオタク運動への想像力について、これまで述べてきたことをまとめておこう。順を追って説明するが、これらはすべて連動して起こるものであることを理解されたい。

 「ガイナックス言説」の理論的なものは、非階層的な場が濃密な相互関係によって重層化された、分配的な視覚的場という考え方にある。分配的な場とは、アニメのイメージに内在する純粋に主観的な形成であり、ニューメディアやニューテクノロジーと結びついている。村上はそれをスーパーフラット(あるいはスーパー・フラット)と呼び、東は過視化された世界(overvisualised world)とデータ構造に言及し、岡田はそれを、視覚野における中心と周縁のヒエラルキーを根底から覆す、周辺の細部への注目という言葉で表現している。純粋な内在性の瞬間(そして経験)として、分配的な場は、それまでの階層、アイデンティティ、組織を壊し、新たな可能性を開くことを約束する。このレベルでは、分配的なものは移動の約束であり、未来に開かれた何かの物質的な捕獲(主体のない経験)にすぎない。

 次のレベルにおいて、「ガイナックス言説」が扱うのは、分配=流通的な視覚領域からパターンが生まれる(創発する)過程である。ここでは、オタク(コオペレイター)とアニメ少女のイメージ(アトラクタ)という二つの形象がこの視覚領域によって提示される。このラディカルな視覚的内在性の構成的権力を構成された権力へと(つまり新たなアイデンティティ、新たな秩序、または言説へと)変換することを、分配=流通的な視覚領域は回避しようとする。このレベルにおいて、「ガイナックス言説」は、分配=流通的領域の内在性を喚起し続けることで、社会-性的(ソシオ-セクシュアル)な発達に関する既成規範に挑み続ける。重要なのは、アニメの女性は実際の女性とはまったく関係も対応もしていないという考え方だ。また、オタクが少女像に執着しても、男性が女性に対して持つ権力による従来の性的ヒエラルキーは生まれない。事実、「ガイナックス言説」は、分散的=分配的な視覚領域を別の力へと高めようとし、言説以前の存在(オタクやキューティー〔かわいい〕)をその分野から出現する特性として提示する。アニメのキューティーはアトラクタであり、オタクはその協力者(コオペレイター)だ。彼らは、従来のヒエラルキー化されたシステムにおける主体の位置ではない。このような男女関係の再構築が、単に同性社会的な絆や男性主義的な前提の置き換えにすぎないことは容易に理解できる。さらに、アトラクタは、ユングの原型や神話的な起源の探求を彷彿とさせる。これが、「ガイナックス言説」の逆行的な動き(retrograde movement )である。肯定的に言えば、ガイナックス的オタク学は、倒錯の動きへの視覚的内在性を追求している。視覚的内在性を維持することは、社会-性的領域における構成的権力のレベルでの多形的な愛着の主張につながる。同様に、「ガイナックス言説」は、知識生産と労働の関係において構成的権力の位置に自らを置くことを目指す——例えば『おたくのビデオ』のように。  オタクの活動は、大学や企業などと対照的に、遊びの規律や非公式な労働として現れるのだ。

 アニメのイメージにおいて発見した「根本的な内在性」を、社会性・性的な発達、知識の生産、労働の領域へと拡張しようとする「ガイナックス言説」の試みを、私は極めて重要なものだと感じる。その言説が、分配=流通的な視覚領域の論理を他の領域へと拡張する過程で、視覚技術の変容が広範な影響を及ぼすことを示しているだけでなく、さらに、そのような変容が啓蒙の衝撃を潜在的に生み出し、それが批判的意識や内在性の政治へと持続する可能性を示す。この論考は、まさにそのような精神で「ガイナックス言説」を詳細に検討してきた。  

 残念ながら、しかし、別のレベル——歴史と国家のレベル——において、「ガイナックス言説」は、過度に視覚化され(overvisualised)、非階層的(non-hierarchical)な領域に関する洞察の帰結を十分に検討できていない。分配=流通的な領域の物質性に関するその思考の初期段階における限界が、アニメとオタクを通じて運動を再考する試みを台無しにしているかのようだ。〔こうして、〕出現(創発)の理論と見えたものが、実は歴史的断絶の理論であることが判明する。創発の理論では、要素と出現するパターンとの関係は「類似性のない対応関係(correspondence-without-resemblance)」を伴うものと期待される。つまり、パターンは要素に似ていないし、要素からパターンを予測することもできない。「ガイナックス言説」は、視覚的に考える際にはそのような理論を暫定的に開くが、歴史的・地政学的に考えるようになると、類似性のない対応関係を断絶、つまり完全な対応関係の欠如(complete lack of correspondence)として解釈する。起源を完全に排除することは、歴史的超越と克服の感覚を生む。私がここで念頭においているのは、特に東浩紀の「アニメオタクはポストヒストリカルである」という考えのことだ。

 創発の理論は、新しいもの(例えばポストモダン)が、現代の要素が密接に相互接続された状態から出現するにもかかわらず、それらの要素に似ていないという点を考えるきっかけとなるべきなのだ。新しいものとは、特定の物質的条件下で潜性的(virtual)であったものが、経験と現実化=現動化(actualisation)として現れるものである。しかし、「ガイナックス言説」は対応関係を放棄しているため、物質性や連続性を考えることができない。例えば東にとっては、単純な断絶が近代からポストモダン(またはポストヒストリカル)への移行=運動(movement)を示唆する。予測可能なモダニスト的な手法において、モダニズムとポストモダニズムの間の歴史的断絶は、地政学的断絶として再記述される。つまり、西洋のモダニズムVS日本のポストモダニズムとしてだ。その結果、階層(ヒエラルキー)への、主体の位置への、アイデンティティへの攻撃として始まったものが、まさにこれらの階層、位置、アイデンティティの防衛へと転化してしまう。

 最後に、この議論を丸く収める例を挙げよう。1995年にアメリカで開催されたオタコン(オタク・コンベンション)に参加した岡田斗司夫が、アメリカのオタクとの出会いについて書いている。その記述の中で岡田は、アメリカのオタクが日本を見ることに深い魅力を感じていることを示している。アメリカ人オタクの視線に魅せられた岡田は、1980年代後半に東欧で起こった出来事に魅せられた西洋人についてのジゼクの議論を思い起こさせる。「西欧を魅了するものは、民主主義の再発明である」とジジェクは推測する(注28)。西欧は東欧において、自らの起源を、民主主義の発明の真正な経験を求めている。同様に、岡田がアメリカのオタクに魅了されるのは、アニメとオタクを再発明し、その起源とアイデンティティを再発見しようとする試みのように見える。ジジェクが示唆するように、魅惑の真の対象はまなざしであり、アメリカのオタクが真正性に魅了されて日本を見つめ返すそのナイーブであるはずのまなざしなのだ。こうして岡田は、アメリカのオタクがいかにオタクであることに誇りを持っているかを強調する。岡田は、日本が失ってしまった原点を、外国人の日本への熱狂の中に見出しているのだ。岡田はこう結論する。「彼らを見ていると、「自由」、「科学」、「民主主義 」の国であるアメリカにかつて熱狂していたことを思い出す」(注29)。要するに、アメリカ人オタクの熱狂的な視線は、日本人オタクのアイデンティティと信憑性を確認するものなのである。

注28 Slavoj Zizek, “Eastern Europe’s Republics of Gilead” (New Left Review 183, 1990).〔スラヴォイ・ジジェク「東欧のギレアデ共和国」(訳・改題:田崎英明)、『FRAME』no.3、1991.10、pp.97-108〕
注29 岡田斗司夫「日本を愛する米国のオタク」(『Aera』1995年10月2日号)、43-44頁。このエッセイは彼のウェブサイト「Otaking Spaceport」に掲載された。ケビン・リーヒーによる英訳もウェブ上で公開されている(『The Rose』第47号より)、「アニメ文化は最高にクール!アメリカの日本オタク」。

 ジジェクが言いたいのは、国民的アイデンティティがいかにしてどこからともなく現れてくるかを示すことである。アイデンティティは、かつてなかったものに対する想像上の脅威、あるいは想像上の喪失から生まれる。喪失の脅威は、その過去に現実のオーラを与える。これはまさに岡田がやっていることだ。岡田は、西洋のオリエンタリズムと日本のオート・オリエンタリズムとの間に確立された共犯関係のパターンを踏襲している。こうして、西洋のオリエンタリズムのまなざしは、非西洋の立場の自己同一性の源泉となり、そのまなざしとの関係において、非西洋の立場は主体化されるのである(注30)。しかし、これこそまさに分配=流通な場が挑戦していることではないだろうか。遠近法やヒエラルキーを排除した分配=流通的な場は、まなざしに基づく位置的アイデンティティの確立を許すべきではない。実際、東は村上隆の芸術を論じる中で、デリダのラカン的まなざし批判と連携している。村上隆のオブジェに見られる増殖する眼差しや表面は、脱構築の現実化した状態を東に示唆している。「D.O.B.」と名付けられた彼の考案したアニメのようなキャラクターに捧げられたものなど、村上のアニメにインスパイアされた一連のフィギュアは、遠近法や視覚的な秩序や視覚的な階層化を用いていない――この分配=流通的な視覚的領域は、安定した視覚的立場への依存を否定する。では、なぜ視線は別のレベルで戻らなければならないのか?

注30 岩渕功一が指摘するように、このような日本人のアイデンティティ形成のプロセスは通常、アニメにとって最も重要な市場のひとつである「アジア」を排除したり、忌み嫌ったりしている。Recentring globalization: Popular Culture and Japanese Transnationalism (Durham, NC: Duke University Press, 2002)を参照。

 問題の一部は、東がアニメや村上のアートに、――近代西洋の視線との完全な断絶を通じて――ポストモダンの到来を見出している点にある。残念ながら、このような歴史的・地政学的な断絶を確立することで、東は自身が挑戦しようとしている視線そのものを再構築している(注31)。したがって、彼は日本のアイデンティティを確立する言葉で心地よく語る。同様に、村上は最近、自身のこれまでの芸術を「本当に日本的なものではない」と述べるようになった。彼は、国際的な認知を得るために日本美術のなかにこの新しい「スーパーフラット」の系譜(lineage)を発明したと主張し、これにより日本に回帰し本当の興味を追求できると言う。彼は西洋の視線を操作していると主張するだけでなく、その操作は本物(something authentic)に依拠することで可能だとも言う。したがって、アニメの再発明は、日本らしさの再発明となる。実際に1990年代後半には、アニメが国民文化として確立されるに伴い、――『鉄腕アトム』や『銀河鉄道999』など、「ガイナックス言説」においてアニメの定義の中心とみなされる古典的なシリーズがリメイクされ――アニメ業界においてノスタルジー運動の兆候が現れ始めた。

注31 最近の著作で東は、この「スーパーフラットな日本のポストモダン」はつねにすでにハイブリッドであると断言している。伝統的で、オリジナルで、「純粋な 」日本らしさへのノスタルジックな回帰は偽物のようだ」、そして「この混ざり合い、ハイブリッドで、私生児化された状態を最も明確に反映しているのはオタク文化である。つまり、戦後のアメリカン・ポップ・カルチャーなしには日本らしさを見出すことができないというパラドックスである」と彼は書いている。スーパーフラットな日本のポストモダン」http://www.hirokiazuma.com/en/texts/superflat_en2.html 参照。にもかかわらず、このハイブリッドなポストモダンの場は、彼が 「オタク・ナショナリズム 」と語ることができるように、統一された形で作用している。繰り返しになるが、問題は、歴史的・地政学的断絶を措定し、その断絶をハイブリディティや不純物についての記述を通じて交渉する(あるいは否認する)という彼の傾向から派生しているように思われる。

 同じような動きが北米の学会でも起きている。日本研究の分野は、アニメという新しい対象に夢中になっている。アニメは日本研究の刷新を約束するものである(注32)。アニメは学生を大勢教室に引き込み、そこで教授は(理想的には)アニメを通して日本の社会や歴史について教えることになる。さらに、アニメに関する入門書の多くは、国民的アイデンティティや国民的寓意という観点からアニメを読み解いている。ある著者の言葉を借りれば、「アニメとは結局のところ、日本が日本自身に直接語りかけ、日本の文化的神話や好ましい行動様式を強化するものなのだ」(注33)。別の論者は、「アニメが属する 「文化 」は現在のところ、日本では 「大衆 」文化であり、アメリカでは 「サブ 」文化として存在している」と述べている(注34)。言い換えれば、アニメはしばしば差異を平らにするために呼び起こされる。アニメは日本であり、アニメの中の違いの源は、国家(国家的寓意)の中の予測可能な違いなのだ。

注32 このエッセイの以前のバージョンを発表したとき、ブレット・デ・バリーは、日本地域研究を刷新するためのアニメの利用について説得力のある話をしてくれた。そしてそれは、アニメに対する日本研究の魅力を再考するきっかけとなった。
注33 Patrick Drazen, Anime Explosion: The What? Why? and Wow! of Japanese Animation (Berkeley, CA: Stone Bridge Press, 2003), viii.
注34 Susan Napier, Anime: From Akira to Princess Mononoke: Experiencing Contemporary Japanese Animation (New York: Palgrave, 2000), 4.〔スーザン・ネイピア『現代日本のアニメ 『AKIRA』から『千と千尋の神隠し』まで』神山京子訳、中央公論新社、2002〕

 同様に、北米の大学で日本アニメを学ぶ場合、文化的解釈学に適したアニメ、つまり配給され、国際映画祭で分配=流通され承認された作品、宮崎駿、大友克洋、押井守、今敏などの作品を中心にカノンを形成する傾向がある。しかし、彼らは日本のアニメーションの他の回路である、扱いきれないほど豊富なテレビシリーズやOVAシリーズをほとんど無視している。「ガイナックス言説」が真のアニメと呼ぶTVアニメやOVAアニメの領域では、大衆文化が嗜好の共同体に分化していることに少なくとも立ち向かわなければならない。国境を越える文脈において「ガイナックス言説」は、「アニメ=日本」に頼る同じ傾向に陥るが、日本という文脈での差異化には取り組んでいる。

 オタクとアニメに関するガイナックスの言説を真摯に受け止めるならば、アニメの課題は、固定的な文化的アイデンティティから始まる文化的媒介を拒否するところにある。つまり、分配=流通的な視覚の場は、他者との固定的な関係を許容するようなテクストとしては機能しえないのである。この場では、他者との関係は、受容されたアイデンティティや立場に適合するものではない。すべての証拠がこの方向を指し示している。例えば、北米におけるアニメの受容は、文化的専門性のヒエラルキーを大混乱に陥れる。ファンサバーズ(Fansubbers)、つまりアニメの字幕版を自分たちで制作するファングループは、多くの場合、公式の市場翻訳よりもかなり早く、アニメの翻訳、紹介、宣伝における彼らの活動の範囲と幅という点で、大学の専門家よりも驚くほど勤勉である。このように、トランスナショナルなオタク・サーキットは、アニメに関する学術的な議論を支配しているように見える文化的解釈学や共犯的な視線の戯れに、潜在的に挑戦しているのである。

 言うまでもなく、アニメに関するトランスナショナルなオタクの知識は、日本の専門家がアニメを見る方法を支配しがちな文化的解釈学から自動的に逃れられるわけではない。岡田が指摘するように、日本人以外のオタクの多くが日本語の習得を望むのは、まさに日本人の視聴者や文化的な情報提供者、専門家に欠けているものがあると感じるからである。言い換えれば、日本びいきのオタクは、翻訳における損失を確認し、そのギャップを埋めるために文化的・言語的な専門知識を認めているのである。しかし、分配=流通的な視覚の場という概念を真摯に受け止めるならば、翻訳というトランスナショナルな動きについて別の考え方をしなければならないだろう。もしアニメのイメージが、複数のメディアによる変容を可能にするメディアの開口部として機能するのであれば、国境を越えて移動するアニメの変容は、自己組織化する場の拡散の一部として見なければならないだろう。日本以外の国でも、同じような誘引者や協力者が現れても不思議ではない。アニメのイメージはそういうものではないのだろうか。アニメは翻訳で失われるのではなく、開かれるだけなのかもしれない。つまり、もともとの文化的意味が失われるというよりも、もともとのイメージの中にすでに暗黙のうちに含まれていた、あるいは少なくともそれを可能にするような意味が増殖するのである。それらのイメージには、すでにアメリカのグローバル文化との関係がある。

 大衆文化やサブカルチャーやファンカルトとしてのアニメが、どのように差異を生み出すのかを考えること、他の活動や他の娯楽とは異なるアニメ活動の自律的な領域をどのように標示しようと努めるのかについて考えることが不可欠である。あらかじめ固定的なカテゴリーや社会的タイプを想定することなく、こうした新しい受容様式や自律の新しいゾーンを考えるためには、理論的な転換が必要である。「ガイナックス言説」は、そのような理論的転換を始める。重要なのは、分配=流通的な場のラディカルな内在性を通して、アニメの構成的権力を発見することである。それは、社会性の発達、知識の生産、労働のパターンを解き放つ可能性を開くものである。もちろん、「ガイナックス言説」の理論的転換がいかに挫折し、失敗するかは示した。しかし、その失敗を、内在性の政治学そのものの失敗と考えるべきではない(そのような政治学が他の危険を冒していないとしても)(注35)。ここでの目的は、分配=流通的な場の理論的・政治的帰結を押し進めることである。

注35  Ernesto Laclau, in “The Immanence of Empire,” provides an important critique of Hardt and Negri’s politics of immanence, as does John Kraniauskas in “Empire, or Multitude: Transnational Negri.”

 日本であろうと他の国であろうと、オタクは何よりもネットワーク化され、コンピューター化されている。そして、アニメ・イメージの分配=流通的distributive なレイヤー化は、他のメディアとの多重インターフェイスを提供する。しかし奇妙なことに、オタクは常に(コンピューターと)接触している一方で、常に(現実世界とは)無縁である。すべてがつながる体制がますます強まっているように見える中で、切り離すとはどういうことなのか。逆説的だが、ヲタクは、情報の全関連性の核心にある非関連性をむき出しにする。可能性として、オタクであることは、コミュニケーション革命の中心で非コミュニケーションの権利を主張することであり、労働の中心に拒否を刻むことである。オタクとアニメの関係は、新しいメディアとテクノロジーの中心で働くことへの拒否なのだろうか。オタク運動は、グローバルなメディアの変容の中で、また、オタクやアニメが固定的な社会的あるいは歴史的アイデンティティの観点から想像されるときには考えられないような活動の領域で、すでに進行している。

謝辞
このエッセイの執筆に大きく貢献した洞察に富んだコメントを寄せてくれたケン・ディーン、ブレット・デ・バリー、アン・マクナイト、シャロン・キンセラ、リヴィア・モネに感謝する。また、SSHRCおよびマギル大学からの資金援助にも感謝する。


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