Fantasies of Europe, fantasies of Japan: Isekai and the narrative logic of Japanese Occidentalism
Scott Ma (University of Zurich)
East asian journal of popular culture, Volume 9 Number 2 [eajpc 9 (2)] pp. 281–297 Intellect Limited 2023
https://doi.org/10.1386/eapc_00111_1
Received 25 June 2022; Accepted 20 December 2022
KEYWORDS: Orientalism, anime, human rights, medievalism, modernity, popular culture, nationalism, light novel
(DeepLによる雑訳)
概要
本稿では、文学的オクシデンタリズムの枠組みを用いて、現代日本のフィクションの人気ジャンルである「異世界」において、日本とヨーロッパの間にどのような不平等な力関係が演出されているかを研究する。標準的な異世界のプロットでは、10代の日本人の少年が突然、ファンタジー版の中世ヨーロッパに転移してしまう。そこで主人公は超パワー(superpowers)を授けられ、第二の世界をまたがってその超パワーを自在に操ることができる。その第二の世界で彼はエキサイティングな冒険に乗り出し、思いのままに行動する。この超パワーは、日本的風習という覆いの下で、主人公が西洋の近代性を西洋に持ち帰ることを媒介し、保証する。中世ヨーロッパを否定することで、「日本」は自ら自身のファンタジーとなり、ただちに西洋よりも近代的でありつつ、日本的だと同定可能な場所となる。ヤマグチノボルの『ゼロの使い魔』と長月達平の『Re:ゼロから始める異世界生活』という2つの重要なライトノベルを精読することで、本稿は、日本への同一視といった、異世界に共通する物語の主題(tropes)を特定し、識別する。それらは、ヨーロッパを非合理的で見当違いな存在として見下すこと、主人公の超パワーによってヨーロッパ人を道徳的に救済すること、主人公の道徳的前提に対する潜在的な反論を退けることなどだ。
序論:アジアの現在、ヨーロッパの過去
本稿では、現代日本小説の人気ジャンルである「異世界」に分類される物語の多くが、日本とヨーロッパのバイアスのかかった比較に依拠した物語を使用しており、理想化された日本が人種差別や暴力といったヨーロッパの道徳的危機の解決策として描かれていると論じる。日本語の「異世界」という言葉は「もうひとつの世界」と訳され、このジャンルの基本的な前提、すなわち、相互作用がほとんど不可能な二つの並行世界の存在を表している(注1)。本稿が批評するその標準的な物語の中では、日本人の主人公(通常は10代の少年)が、日本のロールプレイングゲーム(RPG)に由来する中世ヨーロッパのファンタジー版に転移もしくは転生する。この世界では、主人公は超パワーを与えられ、それによって強敵を倒し、その過程で魅了された女性たちによるハーレムを築く。無数のバリエーションがあり、主人公が女性や年配の男性の場合もあるし、中世ヨーロッパの住人が日本を訪れる場合もある。日本が暗黙のうちに存在する場合もあるが、そのどちらの世界も中世ヨーロッパを描いたものだ。ストーリーはロマンティック・コメディからサイコ・スリラーまで何でもありで、主人公の超パワーも身近なものから不条理なものまで様々だ(注2)。しかし、パロディ的あるいは批判的なバリエーションでさえも、日本の少年が空想上のヨーロッパに超能力をもたらすという、筋金入りの〔試行を重ねて強化された〕物語に回帰する。この論文では、「なぜ異世界ものの作家は中世ヨーロッパを舞台に選んだのか?」「この世界間の移動は、ヨーロッパと日本の関係にどのような影響を与えるのか?」「そして、現代の日本のナショナリズムについて、「異世界」は何を語ることができるのか?」を問う。
(注1) Web小説サイト「小説家になろう」の定義であり、ここから多くの異世界小説が生まれた。https://syosetu.com/site/isekaikeyword/ を参照。2022年6月23日アクセス。
(注2) 例えば、江口廉の異世界小説『Campfire Cooking in Another World with My Absurd Skill俺の不条理なスキルで、異世界でキャンプファイヤー料理する』〔『とんでもスキルで異世界放浪メシ』〕では、主人公の超パワーは料理を作ることで、ひょんなことから万能になってしまう。
異世界ものにおける標準的な物語は、三宅俊夫が現代日本のオクシデンタリズムの文学構造として説明するものの一例である、と私は主張する:
帝国主義の脅威や原始文化と同義である西洋(オクシデント)やその近代性から自らを区別しようとする、類似した緊張、そして[......]、今世紀における価値観の危機とともに、今度はルネサンス・モデルによるローマ古代風の伝統や古典主義への回帰を提案しようとする。つまり、同じ西洋の中での回帰を、である。 ([Miyake] 2010: 242, 原文強調)
オクシデンタリズムには2つの要素がある。第一に、西洋の帝国主義の歴史を批判し、その人種主義を野蛮で後進的なものとして非難する。しかし、この帝国主義の糾弾は、文化的相対性という「価値観の危機」を招く危険性をはらんでいる。その危機は、同じ西洋の伝統の本質化されたバージョンへと回復させることによって西洋を救うという、第二のオクシデンタリズム的契機によって否定される局面を引き起こす。それによって日本は、「日本」という外見の下に西洋の伝統を具現化することによって、西洋をそれ自体から救うのである。同じようなアプローチは、日本人の主人公が架空の中世ヨーロッパで冒険を繰り広げるという異世界ものの論理を特徴づけている。その過程で、主人公は封建的な文化規範を否定し、個人主義や人権といった西洋の伝統的な価値観――今や日本的伝統の衣を纏った――に置き換える。
日本のポピュラー・カルチャーを研究する学者たちは、日本と西洋の共犯的でオリエンタリズム的な関係が、日本人がこのような立場を自分たちのために、時には破壊的に流用(appropriating)することを妨げないことを指摘してきた。三宅自身も、「ヘタリア」フランチャイズの女性ファンが、擬人化されたヨーロッパ諸国と日本の関係をフィーチャーしたホモエロティックな作品をどのように読み、制作しているかを研究しており、その諸国間の関係に男性的なヨーロッパ中心主義が、女性的な楽しみのために「根底にある参照基準」として残っていることを指摘している(Miyake 2013: n.p.)。同様に、レイナ・デニソン(2018)は、最近のアニメ映画『サマーウォーズ』が、日本の家父長制とアメリカの軍国主義を同様に批判するために、イエ制度や花札といった伝統的日本に結合された主題(tropes)をいかに繰り返しているかを示している。このような流用(appropriations)には、20世紀初頭の日本の戦間期帝国主義にまで遡る歴史がある。この時代にナショナリストの映画作家たちは、ハリウッドが描く「伝統的な」日本の価値観の内容を、ハリウッド映画というメディアそのものに合体させて取り込もうとしたのである(Miyao 2007)。西洋は日本のような東洋の国々を女性化するかもしれないが、日本人自身はこのオリエンタリズムを楽しみ、誇り、批評の源泉として利用するかもしれない――オクシデンタリズムの特徴であるオクシデントの暗黙の中心性を完全に維持しながら。
本稿では、三宅が理解したオクシデンタリズムの推進力を、2つの有名な異世界作品から検証する。ひとつはヤマグチノボルの『ゼロの使い魔』(2004-17)であり、川原礫の『ソードアート・オンライン』(2002-現在)と並んで、2010年代に人気が急上昇した「異世界」ジャンルの始祖と称される。ピークは 2017 年から 2019 年頃までで、およそ 3 日に 1 冊の割合で新しい英語版異世界マンガが出版された(Price 2021: 58)。また、ウェブサイト「小説家になろう(‘Let’s become novelists!’)」に掲載された無料で読めるウェブ小説が発端となっている作品も多い。「小説家になろう」を運営する会社〔株式会社ヒナプロジェクト〕の企画部部長である山崎翔子は、インタビューの中で、「小説家になろう」が現在のようにイセカイと結びついたのは、2000年代後半に「ゼロの使い魔」を題材にしたファンによる二次創作(derivative fan-produced works)が「小説家になろう」で次々と発表されたからだと述べている(Kurata and Yonemura 2019)。これらの二次創作に影響を受けた作家の一人が長月達平であり(Iida et al. 2020)、彼は2012年に『Re:ゼロから始める異世界生活』(2012年~)というタイトルで「小説家になろう」で異世界ものを書き始め、大成功を収めた。2023年2月のライトノベル・ニュース・オンラインによると、『リゼロ』は、ライトノベルの販売部数で14番目の人気となっている(LNN n.d.)(注3)。
(注3) ライトノベルは日本のパルプ・フィクションの一種で、中高生向けに書かれることが多いが、読者層はジャンルによって大きく異なる。
ベストセラーチャートには他にも数多くの異世界ライトノベルがランクインしているが、『リゼロ』はテーマが対照的であることから分析の対象に選ばれた。『リゼロ』は、他の多くのライトノベルのように軽快でコミカルな作品ではなく、ダークで心理的に強烈(psychologically intense)な作品である。『リゼロ』と『ゼロの使い魔』を対極に置くことで、異世界というジャンルの中で際立って異なる作品でさえ、いかに日本と中世ヨーロッパを似たような形で結びつけているかが明らかになる。それは、平和と近代性の源泉としての日本にバイアスのかかった特権を与えるものである。異世界ものに関する既存の研究はこの不平等性を指摘してきた。そこでは、中世ヨーロッパが「社会的現実social reality」を代替する安らぎの空間space of comfort」(Levy 2021: 106)となり、若い男性たちが「彼らを歓迎し受け入れるパラレル・ワールドで勝利し英雄となる」(Cerdán-Martínez et al.)。Zachary Gottesman(ザッカリー・ゴッテスマン)が指摘するように、異世界ものの特徴は、ファンタジーの世界に逃避する主人公だけでなく、「現代生活の基本的特徴に対する純粋なエンパワーメント・ファンタジー」でもある(2020: 534)。こうした批評がオクシデンタリズムの物語の枠組みのなかに存在することを明らかにすることで、本稿はその政治的・ナショナリズム的次元を明らかにする。
本稿では、まず『ゼロの使い魔』を検証し、その後に『リゼロ』を取り上げ、調査結果を要約し、異世界ものに類似・関連する他の物語と比較して締めくくる。2つの内容のセクションにおいて、各作品を簡潔に要約した後、以下の順序でテクスト内の連続するオクシデンタリズムの主題(Occidentalist tropes)を特定する。すなわち、日本への確固とした同一視、ヨーロッパはロマンティックだが幻想であるという見下し、主人公の超パワーのおかげでヨーロッパ人を道徳的に救済すること、主人公が最初にヨーロッパに持ち込んだ道徳的前提に対する潜在的な反論を退けることだ。これらのパターンが組み合わさって、近代性や道徳といった矛盾を克服する日本像の上に、オクシデンタリズムの物語が紡ぎ出される。主人公が体現するこのファンタジー日本は、ヨーロッパを軍事的・イデオロギー的に占領し、人権や法の支配といった近代的規範を、しばしば武力によって導入する。主人公の超パワーを通して、イセカイは、今やポストモダンのユートピアと問題なく同一視されるようになった日本という手段を通して、「ヨーロッパ的」近代性を再びヨーロッパに導入するのである。
都合のいい冒険 『ゼロの使い魔』における中世ヨーロッパの征服
ヨーロッパ、日本近代の裏側
ヤマグチノボルの異世界もの作品『ゼロの使い魔』の舞台は、中世ヨーロッパをファンタジー化したハルケギニアの世界である。ハルケギニアでは、ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールはトリステイン魔法学院に通うティーンエイジャーであり、その学院では魔法を使えるかどうかで貴族と平民の階級が分かれている。魔力を制御できない貴族のルイズは、同級生たちからバカにされ、「ゼロ・ルイズ」と呼ばれていた。ある日、ルイズは同級生たちと動物のファミリアを召喚するが、ルイズの同級生たちがさまざまな魔法生物を召喚するのに対し、ルイズは日本の男子高校生、平賀才人を召喚する。ルイズも才人も最初は納得していなかったが、2人は次第に恋に落ちる。物語が進むにつれ、才人は訓練なしでどんな武器でも完璧に操ることができる「ガンダールヴ」としての超パワーを発見し、一方ルイズはたった一つの呪文で全軍を倒すことができる「虚無の使い手」としての力を発見する。才人の超パワーの副次的な効果として、地球からハルケギニアに偶然転送された武器の使い方を即座に知ることができるのだが、その武器は、中世世界の魔法のどれよりも常に強力である。『ゼロの使い魔』を通して、才人は剣だけでなく、ロケットランチャー、戦車、AK-47、そして彼の特徴である日本の零戦(Zero fighter jet)でも敵を倒す。これらの超パワーは自ら得るものではなく、与えられたものであるため、ストーリーの大部分は、才人の愛情をめぐって争う様々な女の子たちのコミカルなやりとりにかかっており、ロマンティックコメディの主な魅力となっている。
『ゼロの使い魔』では、中世ヨーロッパは野蛮で、暴力的で、差別的であるが、才人の超パワーのおかげで、彼は肉体的にも社会的にもほとんど危険に直面しない。シリーズ第1巻のあとがきで、ヤマグチは執筆の動機を語っている。あるあとがきで、彼は『ゼロの使い魔』を「心地よい冒険(comfortable adventure)」と表現している:
It’s not that I dislike adventures. It’s just that I have no stage, it’s cold outside, I’ll get sleepy soon, I’d quite like to get a pizza once I’m hungry, and therefore, I have no choice but not to leave my room. If there was a stage for a convenient adventure (‘tsugō no ii bōken’), I would jump at it. Men are always thinking in this way. But the basics of any adventure is agency (‘shutaisei’) and danger. Anyway, men want to decide for themselves and to throw themselves into danger. Men are miserable beings who cannot enjoy themselves without feeling danger.
冒険が嫌いなわけではありません。ただ、自分には舞台がない、外は寒い、すぐに眠くなる、お腹が空いたらピザを食べたい、だから部屋から出ないしかない。都合のいい冒険の舞台があれば、飛びつく。男というものは、いつもそんな風に考えている。しかし、冒険の基本は「主体性」と「危険性」である。とにかく、男は自分で決めて危険に身を投じたがる。危険を感じなければ楽しめない惨めな存在なのだ。
(Yamaguchi 2005a: 262〔第4巻あとがき・訳注1〕)
(訳注1) 原文では「冒険が嫌いなわけじゃない。ただ、舞台がないし、外寒いし、そろそろ眠いしおなかすいたらピザでいいしというわけでしかたなく部屋から出ないだけなのです。都合のいい冒険の舞台があったら、飛び出たい。男は常にそう思っています。でもって冒険の根本とpは、主体性と危険性です。とにかく、自分で決めて、危険に身を投じたいのですね。男は危険を感じていないと興奮できない哀しい生き物なのです。」(『ゼロの使い魔 第4巻 誓約の水精霊』あとがき、262頁)
ヤマグチの言葉を借りれば、現代の男性(ヤマグチは明確に男性について話す)は難問に苦しんでいる。日本のような先進国での生活は快適で、戦争もなく安全だが、日常的な危険がなければ、男性は自分自身を楽しむことができない。男性は危険を望む一方で、それを恐れ、ピザを注文したり、エアコンのある部屋に住めることをありがたがる。それゆえ、『ゼロの使い魔』のような冒険小説を読むことで、現代の男性は架空の人物の人生を通して身をもって生き、自分を危険にさらすことなく危険を体験することができるのである。しかし、『ゼロの使い魔』が面白いのは、読者があらゆる危険から隔たっているだけでなく、才人も同様に隔たっていることだ。ガンダールヴの力を持ち、現代日本に出自を持つ才人は、日本から中世ヨーロッパに飛ばされた現代の男性である。男性読者は快適な冒険に出かけるだけでなく、この読者は、この便利な冒険に出かける日本人である架空の才人と同一化する。読者が生きているファンタジーは、大きな暴力に立ち向かう主人公のそれではなく、大きな暴力の土地で快適に暮らし、ほとんど危険を冒すことなく大きな危険を目撃できる日本人冒険家のそれである。前近代のヨーロッパで快適な日本生活を送ることがこのようにできることは逆説的な状況であり、シリーズを通してその状況の緊張と表出が繰り返される。
歴史を修正し、ハーレムを引き寄せる
ヤマグチの日本とヤマグチのヨーロッパは、洗練されていない快適な近代と、高貴で危険な封建主義という共犯関係を形成しており、才人は前者の大義を推進する(advance)ために力を行使する。ヤマグチは、近代日本が失ったものへのノスタルジアから、中世ヨーロッパを舞台にした。著者が説明するように、「(封建ヨーロッパは)誇り高き貴族たちが名誉のために生き、名誉のために死んでいった時代だ」(Yamaguchi 2004a: 262)。このような美化されたヨーロッパ観は、17世紀、特にアレクサンドル・デュマの『ダルタニャン物語』シリーズに由来する。ハルケギニアの地図は西ヨーロッパの地図を忠実に反映しており、[作品の舞台である]トリステインに登場する多くの人物は、17世紀フランスの歴史上の実在の人物をフィクション化したものである(注4)。ヨーロッパを旅することで、現代の日本人読者はロマンと危険を再発見すると同時に、理性的で安全であること、つまり日本人であり続けることの重要性を認識する。ヨーロッパと比較することで、日本はロマンスを削ぎ落とされ、ヨーロッパは理性を削ぎ落とされ、ヨーロッパに襲撃・進出する舞台を整えるのだが、その舞台では日本が理性の担い手となるのだ。
(注4) 好奇心旺盛な読者は、TV Tropesの「ファンタジーの対極にある文化」のカテゴリーにあるこの小説のページを参照されたい:https://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/LightNovel/TheFamiliarOfZero. 2022年6月24日アクセス。
『ゼロの使い魔』の中で、才人は男女を問わず多くの称賛者・ファンを惹きつけ、その多くは才人が表象する文明の近代性を賞賛する。たとえばジャン・コルベールはトリステイン魔法アカデミーの教授で、才人と同じように戦争と破壊を憎んでいる。にもかかわらず、彼は日本の技術に驚嘆し、後に才人の零戦に基づいた独自の巨大飛行船を発明する。物語のある場面で、才人とルイズが戦争に向かう際、コルベールは才人に次のような内容の手紙を書き送っている:
その世界では、きみが今乗っているような飛行機械が空を飛び、ハルキゲニアとは比べものにならんほど技術が発達してる。そうだな?
あのだな、わたしはそれを見たいのだ。
見て、是非とも研究に役立てたいのだ。
だから君が東に行く際……、わたしも連れて行ってほしい (Yamaguchi 2005b: 257〔『ゼロの使い魔 第6巻 贖罪の炎赤石』、257頁〕)
コルベールと才人は、高度なテクノロジーを持つ文明の優位性を前提に、日本を技術進歩の望ましい源泉として扱っている。魔法がほとんどの不便を解決するハルケギニアでは、コルベールは一般に、科学技術の実験を望む変わり者と見られている。才人はコルベールの研究を奨励(ルビ:エンカレッジ)し、コルベールは自分の研究プログラムが正当なものだと自信を深める。現代日本は先端的テクノロジーを導入し、テクノロジーを通じて世界平和を実現するが、一方で前近代のハルケギニアは原始的なままに留められる。コルベールは、テクノロジーの進歩は客観的な善であり、日本はそうした進歩の典型であると考えているが、そのとき彼は、現代世界においては軍事テクノロジーは戦争を終わらせたというよりも、戦争をより見えにくくしているという事実を見落としている(Moyn 2021)。
コルベールが日本を未来のテクノロジー進歩の源泉として扱うなら、メイドのシエスタは才人を通して日本を階級階層のない未来の源泉として扱う。彼女は彼にこう言う:
「……サイトさん、わたしに『可能性』を見せてくれたから」
「可能性?」
「そうです。平民でも、貴族に勝てるんだって。わたしたち、なんのかんの言って、貴族の人たちに怯えてくらしてる。でも、そうじゃない人がいるってこと、なんだか自分のことみたいに嬉しくって。わたしだけじゃなくて、厨房のみんなもそう言ってて」 (Yamaguchi 2004b: 116〔『ゼロの使い魔 第3巻 始祖の祈祷書』、116頁〕)
トリステインのような階層社会では、シエスタや才人のような平民は、魔法が使えないことを理由に貴族たちから見下された扱いを受けているしかし、シエスタは才人と出会うまでは、それ以外の社会構造を想像することが難しかった。だが、平民である才人が貴族たちを打ち負かすことができたのは、才人の存在だけでなく、ガンダールヴと近代的な戦争機械の使い手としての無敵の力があったからだ。才人の超パワーは彼を気ままな冒険の旅に連れ出し、その道中、社会規範に対して容赦ない力で挑戦し、虐げられてきた女性たちを才人に惹きつける。しかし、トリステインの社会的カースト制度の頂点にいる女性たちでさえ、才人に惹かれていく。特にルイズは彼への芽生えつつある愛を次のように認識している:
いつごろから、こんな風な気持ちを才人に抱くようになったのだろう?
たぶん、あのときからだ、とルイズは思う。
フーケのゴーレムにつぶされそうになったとき、才人に抱きかかえられた。心臓が跳ねた。死ぬかもしれないってときなのに、ばくんと跳ねた。
一番嬉しかったのは、ワルドに殺されそうになったとき、才人が飛び込んできてくれたことだ。でも、一番どきどきしたのは……、風竜の上で、唇を重ねてきたとき。あれからもう、まともに才人の顔が見られない。 (Yamaguchi 2004b: 78〔同書、78頁〕)
中世の暴力的なハルケギニアの世界では、どんなに美しい乙女であっても、絶え間ない危険にさらされる。実際、現実のルイズを堕落させたのは君主自身の気まぐれであり、『ゼロの使い魔』では、野蛮な世界で生きるルイズを何度も危険から救い出すことができるのは、才人の超パワーのおかげである。才人は、ルイズの場合のように他の登場人物の人生の救世主となるだけでなく、不当な社会規範を暴き、テクノロジーの進歩した未来の可能性を示すことで、シエスタとコルベールにより良い未来の可能性を示す。社会的平等、人道的救済、テクノロジー的進歩といった「善き」目的が推進されるのは、才人に授与された大いなる力がそのために配備・行使されているからであり、それによってすべてが可能になる。現代の「善」の真の道徳性が問題にされることはほとんどなく、問題にされたとしても、議論は常に前近代の過ちとして解決される。
才人が彼の取り巻き(followers)に向ける訴えは、ヤマグチが『ゼロの使い魔』を執筆したもうひとつのテーマ的動機、すなわち歴史を修正(correct)したいという願望と一致する。ヤマグチは、中世ヨーロッパがロマンティックであるだけでなく、極めて不正なもの(unjust)であると考え、フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール(1644-1710)という実在の人物を女性の主人公に選んだ。実在のルイーズは悲劇的な人物だった。ルイ14世の愛妾であったルイーズは、やがて寵愛を失い、修道院で生涯を終えた。ルイーズを描いたデュマの小説(Dumas 1975)から引用して、ヤマグチはルイーズの生涯について次のように解釈している:
彼女はスレンダーな美女であったのでしょう。ふくよかで肉感的な女性と己を常に引き比べて、コンプレックスに陥りつつも、愛に殉じた女性の姿が目に浮かぶようです。(…)
僕はそんな女の子を応援したいのであります。史実のルイズは、待っているだけのおとなしい女性でしたが、こっちのルイズは違う。それでも前に向かって駆け出す女の子です。コンプレックスを、引け目を、愛と勇気で吹き飛ばし、誇りと名誉をかけて魔法を唱える魔法使いです。 (Yamaguchi 2004b: 263〔(同書、「あとがき 史実のルイズ・フランソワーズ」、263頁〕)
ヤマグチは『ゼロの使い魔』の中で、史実やデュマの小説を読みながら感じた不公正(injustice)を正すために、中世ヨーロッパを利用している。歴史上のルイーズの立場に自分を置き、ヤマグチは彼女が不当な運命を受けたと主張する。小説の中でヤマグチは、想像した歴史上のルイーズを変身させ、虚無の使い手の力(それによって希少で非常に強力な魔法の特別なクラスを使えるようになる)を与える。この力によって、ルイズは仲間、家族、国から尊敬されるようになる。物語が展開するにつれ、ルイズは小柄な体格からくるコンプレックスを徐々に克服していく。それゆえヤマグチは、オルタナティブな歴史を書くと同時に、少女が自己の価値を発見するという道徳的な物語を演出(stages)する。この判断を下すことで、過去の歴史は暗黙のうちに不当なものとして断罪される。もし〔歴史上の〕ルイーズが適切な環境で暮らしていれば、生まれ持った才能や能力を開花させ、開花させる機会があったはずだからだ。物語の中では、主人公の才人がヤマグチの代わりとなり、ルイズの自己実現に向けた道筋を指導し、保護する。
ルイズと同様、シエスタとコルベールもまた、現代日本の状況を反映していると思われる育成の機会を与えられている。社会正義、テクノロジー革新、身体的保護に資する力となることで、才人は間接的に現代日本の社会的価値を奨励・促進(ルビ:プロモート)する。この作品は本質的に比較操作的であり、中世ヨーロッパは現代日本より劣っていると位置づけられている。したがって、西洋の価値観をそれ以前の西洋に持ち込むことによって、才人は日本と現代日本人を西洋の伝統の継承者に忠実なものとして位置づけていると言えるかもしれない。
列強(グレイトパワーズ)と大義
『ゼロの使い魔』の登場人物たちは、才人の傲慢さを必ずしも魅力的だとは思っておらず、それが物語の中で葛藤を生んでいる。才人が最も頻繁に衝突するのは、社会における貴族の位置づけに反対するルイズとである。この軋轢は、才人がトリステインとアルビオンの戦争に参加することについて、才人とルイズが言い争うことで明らかになる。ルイズは、外国人であり平民である才人には、自分の意思に反して引きずり込まれた国のために自分を危険にさらす義務はないと主張する。才人は第一に、自分に親切にしてくれた人々に対する義務があること、第二に、ガンダールヴと彼の零戦の力をもつ自分には、友人たちが苦しむのを傍観しない責任があると答える。ガンダールヴと虚無魔法の力で、才人とルイズは最終的にアルビオンとの戦いの流れを変え、地政学的に重要な国として台頭する道を開き、トリステインは後にアルビオンへの再侵攻に参加する。友人を守る義務を主張することで、国際政治を著しく破壊することを合理化する才人の論理は、より詳細な分析に値する。才人はこう述べている:
「俺の世界の『武器』だ。人殺しの道具だ。オモチャなんかじゃない」(…)
「俺はなんだかしらねえけど、伝説の使い魔なんていう、力をもらっちまった。俺がもし、なんでもないただの人間だったら、助けに行こうなんて思わなかった。震えて、見てただけさ。でも、今は違う。俺には『ガンダールヴ』の力がある。俺ならできるかもしれない。俺なら、シエスタを……、あの村の人たちを救うことができるかもしれない」 (Yamaguchi 2004b: 223–24〔『ゼロの使い魔 第3巻 始祖の祈祷書』、222-223頁〕)
才人は日本での生活とハルケギニアでの状況を対比させている。日本では、彼は超パワーも高度な兵器も持たない「普通の人間」だった。一方、ハルケギニアでは、才人は愛する人々に危害を加えようとする状況を「何とかする」ことができる。同時に才人は、自分の超パワーは遊び道具ではなく武器であり、大きな力には大きな責任が伴うことを認識している。彼は暴力を行使することをためらわないが、殺す人数を最小限に抑え、責任を持って超パワーを使うよう注意している。才人は過去の日本での生活と現在のハルケギニアでの生活の違いを強調しているが、彼は自分の決断を国民性(nationality)の観点からではなく、人間の義務という観点から組み立てている(frame)ことに注目してほしい。つまり彼が主張するのは、日本人だけでなく、大きな力を持つ者は誰であれ、それをうまく使うべきなのだということなのだ。才人はこう続ける:
「俺はこの世界の人間じゃない。どうなろうと知ったこっちゃない。でも、せめて優しくしてくれた人は守りたい」(…)
「怖いよ。ああ、無理してる。でも、あの王子さまが言ってた。守るべきものの大きさが、死の恐怖を忘れさせてくれるって。ホントだと思った。あのとき、アルビオンで五万の軍勢が向かってきたとき……、俺は怖くなかった。お前を守ろうと、そんな風に思ったら、怖くなかったんだ。嘘じゃねえ」 (Yamaguchi 2004b: 224〔同書、224頁〕)
ここで才人は、自分が他人を救わなければならない理由は、国家的義務からではなく、国家的・文化的アイデンティティを超越した根底にある人道主義(humanitarianism)からだという主張を繰り返している。才人は、シエスタを守るためにアルビオンの全艦隊を壊滅させ、それによってトリステインが戦わずして勝利することになったとしても、アルビオンとトリステインの戦争がどうなるかに関心がないことを公言している。才人は日本から偶然やってきたことを利用して、ハルケギニアの政治に無関心であることを合理化し、大きな力がどのように悪用されるかという自己認識の欠如を許している。保護・守るというレトリックは、シエスタやルイズのような若い女性を守る必要性によって正当化(legitimized)される。この倫理的枠組みは、ヤマグチが歴史上のフランソワーズ=ルイーズを不当な歴史的運命から守ろうとするのと同様だ。力強い才人の保護のおかげで、彼女たちは歴史から引き出され、通常なら彼女たちの人生やアイデンティティを制限していたであろう社会規範や歴史的出来事から自由になって発展することができる。〔才人とルイズの〕痴話喧嘩箇所の結論はこうだ:
「なに言ってるのよ。あんたはただの平民じゃない。勇敢な王子さまでもなんでもないのよ」
「知ってるよ。でも、王子さまも平民も、関係ねえ。生まれた国も時代も……、〝世界〟だって関係ねえ。それはきっと……、男なら、誰だってそう思うに違いないんだ」 (Yamaguchi 2004b: 224–25〔同書、225頁〕)
ルイズに反論するために、才人は最後に、罪のない女性を守りたいという願望は、文化や貴族や世界さえも関係ない男性的衝動であると主張する。そうすることで、現代社会に由来する性差別的な思い込みを客観的な真実として扱い、ルイズの主張を偽りの良心(false conscience)として糾弾する。ルイズが考えていることが、トリステイン貴族性というロマンチックだが誤った観念から生まれたものだとすれば、才人の主張は、彼が客観的だと信じている自然の本能に根拠を置いている。この対話を通じて、才人は自分自身が不条理(absurd)な人物であることを明らかにする。すなわち、卓越した権力を持ちながら戦争には嫌悪感を抱き、不正を防ぐために行動しながらもそれが地政学的にもたらす結果については無知であり、ノブレス・オブリージュを軽蔑しながらも道徳的判断においては頑なな性差別主義者である。このような内的矛盾が、異世界ものの異世界転移の核心を形成し、主人公の必然的な勝利が物語を保守的な方向に導く。こうした緊張関係は、次に紹介する『リゼロ』ではより顕著になる。
悲劇のオクシデンタリズム:『リゼロ』におけるゲーミング・ヨーロッパ
日本から出発し……
長月達平の『リゼロ』では、主人公のナツキスバルはやる気のない男子高校生で、中世ヨーロッパのファンタジー版であるルグニカ王国に突然転移してくる。ルグニカ王国では王位争奪戦が行われており、スバルは候補者のエミリア(スバルにとって主な恋愛対象)と手を組む。才人と同様、スバルにも超パワーが与えられているが、スバルの超パワーは「便利」とは言い難い。定期的に更新されるセーブポイントまで時間を巻き戻すことができるのだが、それは彼が死ぬイベントでしか発揮されない。死ぬ間際まで時間を巻き戻せるスバルの能力は才人よりも無敵だが、彼の死は概して陰惨で、しばしば悪夢のような状況を何度も経験することになる。物語は、中世ヨーロッパの蛮行から自分と愛する者の死を防ごうと奮闘するスバルが、複数の時間軸の中で生きていく姿を描いている。
ヤマグチの『ゼロの使い魔』と同様、長月の『リゼロ』は中世ヨーロッパを舞台に、ポピュラーカルチャーに由来する集合的想像世界(collective imaginary world derived from popular culture)を参照している。長月の作品は、ヤマグチ以上に日本のサブカルチャーと密接に結びついている。長月は実際の歴史を再解釈せず、ヤマグチ作品から10年後に当たる彼の作品は、『ゼロの使い魔』含む他の異世界作品に触発されている。異なる異世界もの作品間の間テクスト的な相互参照は、長月にとってまさにこのジャンルのお気に入りの部分だ。作者はインタビューでこう説明している: イメージは簡単に共有でき、瞬時に楽しむことができる。[…]マンガやゲームに接する過程で自然と身につく、一般的な常套句(tropes)を知っている限り、それ以上の前提知識は必要ない」(Iida et al. 2020: n.p.)。ヤマグチのヨーロッパは現実から完全に切り離されているため、関連するサブカルチャー的常套句に精通した日本の読者、とりわけ異世界ものを読んだり RPG をプレイしたりする若い男性にとっては、より親しみやすいものとなる。こうした読者にとって、中世ヨーロッパは、設定や登場人物のちょっとした構成の違いによって、さまざまな異なる物語が展開される身近な砂場(ルビ:サンドボックス)となる。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』をプレイしている人と同じように、異世界ものの読者は、その世界に入る前から、第二の世界について不完全ながらも基本的な理解をしているのだ。『リゼロ』がそのようなRPG群と異なるのは、『ゼロの使い魔』のように、主人公がファンタジーの登場人物と完全に同一化するのではなく、日本からファンタジーの世界に入る者だという立場(ポジショナリティ)を維持する点である。例えば、スバルはルグニカに転移された瞬間から、自分が異世界ものの物語のプロットに入り込んだと思い込んでいる:
「これもそのひとつに違いない[…]」。彼はそう言って、指を鳴らして野次馬の群衆のほうを指差す。「いわゆる『異世界に召喚された』案件のひとつだろ?」巨大なトカゲのようなものに引かれた牛車のような乗り物が目の前を横切ると、彼はそう言った。 (Nagatsuki 2016a: 4)
その直後、物語の語り手はこう説明する:
スバルがなぜ自分の現状をすぐに受け入れ、理解できたかというと、彼がアニメやゲームに毒された現代日本の若者であったという事実が関係している。そして、そのことに彼は心から感謝した。 (Nagatsuki 2016a: 5)
また、スバルはすぐに「この異世界召喚の設定にメインヒロインがいないことがプロットの大きな穴だった」(Nagatsuki 2016a: 7)と独り言を言っているが、これは『ゼロの使い魔』のような、かわいい異世界のヒロインが日本人の主人公を召喚する物語への斜め(oblique)の言及である。スバルは日本文化の知識のおかげで、中世ヨーロッパに転移したわずか数分後に、自分がいる世界だけでなく、自分が属するべき筋書きについての知識を得る。『ゼロの使い魔』が主人公が自意識的に中世ヨーロッパで日本人のままでいる物語だとすれば、『リゼロ』では中世ヨーロッパはさらに日本文化的な虚構(fabrication)である。召喚されたことや、魔法や社会階級といったハルケギニア的な規範に才人が当初戸惑うのであれば、スバルは、ルグニカだけでなく、そもそも彼をルグニカに連れてきた物語の常套句・型(tropes)にも、躊躇なくポピュラーカルチャーを用いて説明する。つまり、スバルは最初から第二の世界の存在を真剣に考えていないのだ。ルグニカはファンタジーに過ぎないというスバルの自信と、ルグニカの中での自分の無力さという痛ましい現実との間の不和が、この物語の悲劇性と物語性を形成している。
『ゼロの使い魔』では、主人公の超能力によって敵を簡単に撃退できるのに対し、この悲劇的な要素によって『リゼロ』は他の多くの異世界ものと一線を画している。スバルは当初、自分も同じような状況に置かれていると考えていたが、ルグニカに赴任した直後にチンピラ集団(group of thugs)に喧嘩を売ったところ、殴り倒されただけで、その思い込みはすぐに否定された(Nagatsuki 2016a: 8-10)。才人がガンダールヴの力を使って、最小限のリスクで自分の救世主コンプレックス(saviour complex)に基づいて行動できるのに対し、身体的な力を持たないスバルは、他のより強力なキャラクターを操って自分の代わりに行動させることでしか仲間を救うことができない。スバルの超能力の条件として、自分の能力の仕組みを他人に説明することは禁じられているが、彼は過去の時系列(ルビ:タイムライン)から得た情報を使って、現在の時系列での判断を下すことができる。しかし、他の登場人物たちは、スバルが伝える未来の知識を信じないこともあり、スバルの家父長的(paternalistic)な態度を軽蔑することも多い。度重なる悲劇を目の当たりにすることで、スバルは限界まで追い詰められる。才人以上に、スバルは仲間を救いたいという気持ちと、辛い死から逃れたいという気持ちの間で交渉しなければならない。長月は『リゼロ』を「諦めないことの物語」(長月 2016a: 230)と表現しているが、実際、スバルは仲間を守るために不屈の精神(fortitude)を必要とするのだ。
……自信の揺らぎを経て……
表面的には、スバルは才人よりも情に厚い(compassionate)人物に見えるかもしれない。スバルは身体が弱いので、他人の気持ちに共感することに多くの時間を費やさなければならない。さらに、スバルの母国である日本については、物語の中でほとんど言及されない。『ゼロの使い魔』とは異なり、『リゼロ』の面白さは、日本とヨーロッパの不平等な比較よりも、スバルがいかにして不可解なパズルを解き、迫り来る災難を回避するかによって引き出されている。しかし、検証してみると、物語の要素は似ており、スバルが才人と同じオクシデンタリズム的な思い込みを表に出すことがわかる。『リゼロ』が日本についてあからさまに論じることはほとんどないとしても、道徳的に優れた社会としての日本の存在は暗黙の了解であり、スバルが自らのパワーの使い方を正当化するために必要なものである。物語の中の道徳的葛藤もまた平行線をたどっている。ルイズが才人のオリエンタリズムの論理の矛盾を前面に出したように、『Re:ゼロ』の登場人物たちはスバルの傲慢さを批判する。その批判は、スバルが相対的に無力であるために、おそらくより大きなものになる。しかし、『ゼロの使い魔』と同様に、スバルの無敵の力は常に最終的な勝利を保証している。
才人のように、スバルは自分の力を正当に使う義務を感じている。また、『ゼロの使い魔』と同様、この義務の結果には、ヨーロッパの人物を予期せぬ死から救ったり、差別的な中世の社会規範を正したりすることが含まれる。例えば、スバルが殺された敵の死体を見つめるある場面で、彼は「現代日本の生と死に関する観念にとらわれている」(Nagatsuki 2018b: 68)と感じ、戦場で死を見ることに慣れているルグニカの戦士たちの考え方と対比させる。別の場面では、村の子どもたちを命がけで救う理由を問われたスバルがこう答える。「彼らの顔も名前も、人生で何をしたいかも知っている。僕はもうよそ者じゃない」(Nagatsuki 2017a: 101)。別の劇的なシーンでは、知人が殺され、スバルは自殺することで時間を戻すことを決意する。崖から身を投げる前に、スバルは「それができるのは俺しかいない」と自分に言い聞かせて決意を固める(Nagatsuki 2016b: 240)。才人とスバルの超パワーの性格や仕組みは大きく異なるが、どちらも不当な死を防ぐために超パワーを使い、その大きな力を道徳的に正しい方法で使う義務があると感じている。
スバルはまた、ルグニカでは一般的だが日本では珍しい人種差別や階級差別にも挑戦している。例えば、エミリアは銀髪のハーフエルフで、広く忌み嫌われている「嫉妬の魔女」に似ている。王選の開会式で、エミリアのルグニカ王位への立候補は、他の候補者や、王選を司宰し暫定的に国を率いる賢人会など、出席者から公然と抗議を受ける。たとえば、候補者のプリシラ・バーリエルは、エミリアが生まれてきたことを謝罪するよう要求し(Nagatsuki 2017b: 135)、賢人会のメンバーであるボルドーは、エミリアを「半魔(half-demon)」と表現し、「絶望、混沌、消滅」の魔女に関係する人物を王位に就かせることは「考えられない」と声高に宣言する(Nagatsuki 2017b: 160)。こうしたエミリアの尊厳に対する度重なる侮辱に対して、エミリアの意に反して開会式に忍び込んだスバルは、出席していた高官たちに向かって下品な言葉を叫び、全員に謝罪を要求する(Nagatsuki 2017b: 160)。スバルは恥をかいただけでなく、エミリアが忌み嫌われる魔女と家族関係にあることや、彼女の選出が市民不安を引き起こす可能性があることなど、提起された至極妥当な懸念も無視している。才人と同様、彼の正義感は、誤解を招く迷信を批判する直感に基づく軽率な行動につながる。しかし、才人と違って、スバルには武力によって自分の道徳的判断の正しさを証明する力はない。
この弱点は、後にスバルがエミリアの騎士になることを宣言するシーンで明らかになる。自分の資格のなさを指摘されたスバルは、ロイヤルガードの騎士たちを侮辱し、騎士団に入るための条件として慣習、血統、訓練といった基準を設けていることを嘲笑する。騎士ユリウスとのやりとりの中で、スバルはこう抗議する:
血統。[...] そんなもの、人がどうこうできるようなものじゃない...!
確かに。私が言ったとおりだ。人は生まれによって分かれる。あなたの家でもそうだった。二人は生まれたというだけで平等に扱われるわけじゃない。 (Nagatsuki 2017b: 174)
スバルは、現代日本の実力主義の理想(meritocratic ideal)を持ち込んでいる。それはすなわち、地位の高低にかかわらず、社会のすべての構成員にすべてのエリート職が開かれているべきだとするものだ。彼は、ルグニカのような独自の社会秩序を持つ中世社会を貶めている。その厚かましさのために、スバルはユリウスとの決闘で打ちのめされ、エミリアとも仲たがいする。この仲違いは、スバルの高慢さが最もはっきりと露呈する次のようなやり取りで頂点に達する:
戦利品貯蔵庫で、屋敷で、みんなを救ったのは自分だからだ。――スバルがいたからできたこと。スバルが誇るべき、報われるべき行為だった。彼はそこまでやってきた。彼はそれだけのことをしたのだ。彼はさらに、「俺があなたたちのためにしてきたことすべてに、あなたは私に何か借りがあるはずだ」と付け加えた。 (Nagatsuki 2017b: 220)
エミリアは知らないが、スバルは自分の命を守るために数え切れないほどの凄惨な死を経験した。しかし、描かれた時間軸は悲惨な出来事がすべて回避されたものであったため、エミリアはスバルの犠牲を彼の望むあり方で知ることができない。この傲慢の高ぶりは、哀れな死の連鎖に続いてスバルが嘆くとき、絶望のどん底へと急落する:
俺はいつも口先だけだ! 何もできないのに、自分のことで精一杯! 何もできないくせに、自分のことで精一杯! 役立たずよりはマシだが、それでも世界トップクラスのクレーマーだ! 何様のつもりだ!よくもまあ、こんなみっともない人生を送ってきたもんだ! そうだろ!? (Nagatsuki 2018a: 199)
ここでも他の場面でも、スバルは、人間平等や高貴な傲慢さを口にする割には、自分自身の傲慢さが重大な欠陥を表していることに気づく。さらに悪いことに、ルグニカの優雅で熟練した騎士たちに比べ、スバルは洗練されておらず、戦いでは役に立たない。この2つのシーンは、主人公が無敵の超パワーを持つ英雄であると同時にルグニカの一般人でもあるという二重の立場に内在するさまざまな緊張を例証している。
前者のシーンが、超人的な救世主として認められたいという彼の願望を表しているとすれば、後者のシーンは、他人の前でひれ伏さなければ何も成し遂げられない彼の無力さを露呈している。ルグニカにおいてスバルは、周囲よりさらに力の弱いただの人間であると同時に、自分の意志で歴史を変えることができる超越的な権限を持つスーパーヒーローでもある。言い換えれば、彼は才人のようにヨーロッパ人であると同時に日本人でもあり、矛盾し、絡み合ったアイデンティティである。
……そしてヨーロッパの支配に至る
上記で論じたように、中世ヨーロッパは日本人の想像力にとって砂場(sandbox)であると同時に、無力な日本人主人公を辱める独自の社会規範を持つ第二の世界でもある。しかし、『ゼロの使い魔』と同様、『リゼロ』では主人公の無敵の超パワーのおかげで、ヨーロッパ人と日本人という二重のアイデンティティは常に後者に有利に解決される。近衛騎士団がスバルの自称騎士の称号に挑戦した後、英雄的な救出劇が繰り返され、エミリアは最終的にスバルを騎士にする(Nagatsuki 2021)。ルグニカ王国の人々は、死を恐れず、未来を予知する不思議な能力を持つスバルを英雄として賞賛するしかなかった。スバルは才人のように武力でヨーロッパを支配することはできないが、その超パワーによってルグニカのエリートたちの間で地位を固め、命を救われた人々の中から信奉者を得る。スバルのヨーロッパへの日本的理念の導入は、才人のそれよりも緩やかで暴力的ではないにせよ、同じように導入されている。
『ゼロの使い魔』と同様、『リゼロ』でも道徳の問題が取り上げられることはほとんどない。せいぜいのところ、スバルは自分の人道的義務と繰り返される死の苦痛を天秤にかけて、常に前者を支持する。スバルはルグニカをビデオゲームのプレイヤーのように扱い、セーブポイントをロードして、過去の対戦から得た相手の弱点に関する知識で武装して同じ敵に繰り返し挑む。彼は中世ヨーロッパの人々への愛と友情を公言しているが、スバルは実際には、彼らを自分のさらなる目標を達成するために理解し、操作しなければならない非プレイアブル・キャラクター〔NPC〕として扱っている。エミリアを救うことは、プレイヤーが正しいボタンを押すことで城に閉じ込められた王女を救い出すのと同じように、技術家政治的(ルビ:テクノクラティック)な努力となる。スバルが優先するのは、人間の善ではなく、人間の管理なのだ。彼は構造的な問題を無視し、仲間を救うべきかどうかではなく、その努力を正当化するにはあまりにも困難かどうかを判断する。『リゼロ』があきらめないことについての物語であるならば、何らかの解決策が存在するというむなしい希望は、そもそもこのような問題を引き起こす抽象的な社会的・認識論的要因の検証を軽視している。中世ヨーロッパとの出会いは、スバルに批判的思考をなんら強いることはなく、むしろ日本から持ち込んだ思い込みを倍加させるのだ(注5)。
(注5) こうした特徴は、ウェンディ・ブラウンが新自由主義のもとで「理性の規範的秩序」と表現するものと似ている。この秩序は、「あらゆる人間の領域と努力、人間そのものを、経済という特定のイメージに従って変幻(transmogrifies)させる」(Brown 2015: 9-10)。スバルの冒険が私たちに教えるのは、たとえハードルがどんなに高くても、十分なデータ収集と分析能力があれば、ガチな(savvy)計画立案者(ルビ:プランナー)ならハッピーエンドへの正しい道(たとえそれが当初は明白でなかったとしても)を発見可能だ、ということだ。
結論:ファンタジーとしての現代日本
『ゼロの使い魔』と『リゼロ』では、日本と中世ヨーロッパの物語上の関係が酷似している。中世の世界にテレポートした日本人の主人公は、ロマンチックな高貴さと命がけの危険に遭遇する。大いなる超能力を与えられた彼は、価値ある目的、とりわけ差別の撤廃と仲間の保護を達成するために、自覚的にそれを使う。そうすることで、異世界ものの物語はオリエンタリズムを逆転させ、日本を近代的、中世ヨーロッパを原始的と位置づける。オクシデンタリズムが批判するヨーロッパと同様、ファンタジーのヨーロッパに登場するヨーロッパ人も人種差別的で差別的で暴力的だが、日本がヨーロッパに紹介する平和や平等といった普遍的な価値観もまた、一般的には「西洋的」と表現される。日本はそれによって、日本を媒介として西洋に西洋の復古(restoration)をもたらし、西洋人に、友好的で理性的で文明化された共同体に住む、解放された個人になる方法を教えるのである。日本と中世ヨーロッパのこの二重の対立は緊迫したものであり、異世界の中で有意義に探求されることさえあるが、主人公が貴重な超大国であるため、必然的に日本に有利に傾く。
この超パワーの持ち主は、『ゼロの使い魔』のように日本人であることが明示的に同定されている場合もあれば、『リゼロ』のように日本人であることが暗黙のうちに付随している場合もある。しかし、この違いは表面的なもので、どちらの場合も日本人であることと現代人であることを区別するものはない。結局のところ、日本が中世ヨーロッパにもたらしたもの――人権、安全性、先進技術――は、すべての先進国に共通するものなのだ。このような「日本」と現代世界全体との間の等式の遺物(Relics)は、異世界ものに散乱している。『ゼロの使い魔』のあるシーンでは、才人が緑茶を飲みながら日本式の湯船に浸かり、「祖国」を懐かしむ(Yamaguchi 2004b: 88)。『リゼロ』では、ある朝、スバルが戸惑うエミリアに即席のラジオ体操を指導するシーンがあり、「代々受け継がれてきた祖国の本物のウォーミングアップ体操」と表現されている(Nagatsuki 2016b: 19)。現代性と日本らしさは異世界物語では区別がつかず、才人の代表的な武器が日本のゼロ戦であるのも偶然ではない。
三宅が提示したオクシデンタリズムの定義とは対照的に、検討した2つの異世界もののテキストは若干異なっている。日本は異世界ものにおいてオクシデンタリズムとは一線を画しているが、この批判されたオクシデンタリズムは近代的というよりはむしろ前近代的なものであり、西洋に最終的にもたらされた近代性は、西洋を回復させるというよりも、西洋を日本の無垢(immaculate)な標準にまで高めようとするものである。おそらくこれらの違いは、日本人の主人公が実際に行っていること、つまり軍事的・イデオロギー的なヨーロッパ占領を無意識のうちに否認していることの産物であり、ファンタジー要素を加えることで否認が許されているのだろう。しかし、より重要なのは、西洋の差別に対する批判と、それに続く公正な日本的世界秩序の回復という批判的な二段階の動きが、三宅の理論と異世界ものの物語の間で共有されていることである。異世界ものでは、魔法や妖精のいる中世ヨーロッパではなく、道徳と近代性の本質的矛盾を克服した未来的な日本を想像することこそが、真のファンタジーなのである。
異世界ものと他の関連する物語との比較は、研究の方向性を示す可能性がある。例えば、ジョセフ・キャンベルの原型的な「英雄の旅」と異世界ものは逆であるように見える(Campbell 1968)。異世界ものの英雄もまた「冒険の閾値」を通過するものの、この英雄は異世界から何も望まず、しばしば日本に帰りたいという願望も限定的である。また、人類学者の船曳建夫が主張するように、日本人の「特殊な歴史的存在」(Funabiki 2010: 39-40)に対する不安を、ヨーロッパ中心の近代史の外側で説明する、日本人論(nihonjinron)の長い歴史の一例である可能性もある。これとは対照的に、中世ヨーロッパという設定は、物語性よりも利便性を重視したものであろう。なぜなら、アマチュア作家が既存の集合的イメージに頼ることで、退屈な世界構築を省略できるからである(Iguchi 2011)。最後に、テクノロジーの役割も興味深い。「日本の」テクノロジーは、『ゼロの使い魔』のように重要な役割を果たすものもあれば、『リゼロ』のように無視できるものもある。スバルはルグニカに日本の利便性がないことを嘆くかもしれないが、彼が日本人であり続けるためにテクノロジーは必要ない。〔彼にとって日本人であることは〕主に道徳的な善と無敵のパワーの正しい使い方の問題である。
謝辞
中嶋聖雄(Seio Nakajima)、パトリック・ガルブレイス、ポール・プライス、早稲田のデイビッド・リーニーのゼミのメンバー、そして2名の匿名の査読者の方々には、洞察に満ちたコメントをいただいた。本稿の以前のバージョンは、ロサンゼルスで開催された2022年メカデミア会議で発表された。
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SUGGESTED CITATION
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寄稿者の詳細
スコット・マーはスイスのチューリッヒ大学歴史学部の博士課程在籍中。教育と大衆文化に焦点を当て、日本の戦後史を研究している。『Rethinking History』や『Journal of Japonisme』に寄稿。
連絡先 チューリッヒ大学文学部歴史学科、Rämistrasse 64, 8001 Zürich, Switzerland.
電子メール:scott.ma@uzh.ch
https://orcid.org/0000-0002-1511-1972
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